【5】宇野仁松関連

 宇野先生の知られざる一面が分かるかも

2015年1月30日 (金)

『らんちゅう飼方の手引』~初版の考察(2)~

フィッシュマガジン誌に掲載された井上外喜夫氏の『京都筋らんちゅう飼育考』には、宇野先生の経歴についての誤りがあります。

井上氏が活躍されていた当時、宇野先生は品評会には一切魚を持って行っていないので、先生のらんちゅう入賞歴を丹念に調査されていなかったようです。井上氏によると、宇野先生は品評会では目立った成績は残していないと断言されています。

宇野氏は観魚会にも所属しておられ、品評会では高く評価された魚は創出していません。
私の知る記録によると、戦前の昭和16年、観魚会の品評大会で、京錦三才が西脇行司に、同年第1回全国蘭鋳連盟の品評会で、当才魚石山が東脇行司に入賞したのが最高で、京錦の短評に「頭良き長型魚にして発育適度なり、背腰より筒にかけて聊か味わいに欠けたる箇所あるも、魚体総ての釣り合いに大難なく色艶良き魚なり」とあります。
戦後は昭和31年に日本らんちゅう協会が設立され、第2回全国大会が大阪で催されその時、親魚で日之出が前頭東一枚目に二才魚寿山が、同じく前頭西四枚目に入賞しています。
翌年、名古星の第3回大会では親魚で東山が同じく前頭東四枚目に入賞しており、その後は実績が見当たらず、品評会には魚を出していないようでした。(井上外喜夫氏 フィッシュマガジン誌「京都筋らんちゅう飼育考」より)

実は、今回引き続き取り上げる『らんちゅう飼育の手引(初版)』には、宇野先生の入賞魚の写真が掲載されていたんです。

さらに言うと、戦前、宇野先生は、東京の観魚会に出陳されている記録が多数残っていますし、昭和初期には何度も金鱗会に魚を出陳されている記録も残っているんです。このエントリーの下の写真がその証拠の一つです。

このような事実に照らしてまとめると、こうです。

(1)宇野先生は、戦前まで品評会に出陳して遊ばれ、そして実績を十分積んでいた。

(2)戦後は、会魚で遊ぶことは卒業されていた。

(3)戦後は、もっぱら改良に集中し種魚の作成に専念されていた。

すなわち、宇野仁松氏は品評会でしっかりと経験と実績を積み、その後、会で遊ぶことを止め、誰よりも早くから理想のらんちゅうを求めて改良に着手していたと言えます。

それは何を意味するか?私が思うには、やはりらんちゅうを突き詰めた結果なのだと思うのです。突き詰めると、どうなるか?このブログを丹念に読んで頂くと意味が理解できると確信しています。

さて宇野氏は、言わずと知れた筋金入りのらんちゅう愛好家であり、確かな審美眼と飼育経験とを持ち合わせた大先達であったことがこれで証明されたわけです。

宇野氏のらんちゅうに対するスタンスの変化は、自然な成り行きであったでしょうし、早い時点で気が付いて、品評会至上主義から脱せられたのだと思うのです。
昭和50年代、総合優勝されたY氏に「そろそろ卒業されてはどうですか。」と仰った意味は、後継者指名とも受け止められると考えられます。つまり、勝敗に拘泥するより、私が携わっているステージに上がって来なさいと勧奨しているのだと推察できないでしょうか。

次に初版に掲載されていたらんちゅうの画像をご覧ください。

Photo
上 近代の名魚「名月」の雄姿 金鱗会の権威 京都 宇野仁平氏所有 
下 薫風雌二歳 昭和八年度京都金鱗会大会 当歳魚優等第一席 京都宇野仁平氏所有 とある。

これが昭和初期の優等魚の写真なんです。この写真を見て誰が現在の宇野系を想像できるでしょうか。まだ宇野系も協会系もないのどかな時代。

まずもって貴重なのは、当時の実際の優等魚の画像が残っていること。昭和初期のらんちゅうの画像は本当に見る機会は少ないのです。そして私たちは、この画像を見てどう感じるかが問題です。

A氏「今の魚と大して変わらないじゃないか。」

B氏「古い魚ってこんなのを言うのか。」

C氏「こんなのが優等魚?うっそ~!!」

D氏「どちらも背が高いよね。尾もハの字だし。随分と改良されたきたんじゃないの。」

考え方は人それぞれです。どのように感じましたか?

それでは現代のらんちゅうの評価基準と比較してどうなのかを分析してみましょう。

【上の個体「名月」】

1:更紗魚。頭頂部と背出しの部分だけ赤い。

2:頭部は獅子頭に出ている。兜巾と目下の部分も膨隆して十分。

3:背は高い。腰も深く釣腹。(腹が下がって見える)

4:尾筒と尾芯の角度が急。尾肩は下がっているので上からみると下の個体と同様にハ型になっていたと想像できる。

【下の個体「薫風」】

1:写真は当歳で優等一の個体の二歳時に撮影されたことを踏まえると、頭部は兜巾が少し出てきつつあるように推測できる。目下はないので、ある意味“とんがり”に見えている。現代なら頭が四角く出ていないので淘汰されるかも。目幅もそれほどないことに注目。

2:背は上の魚と同様に高い。峰が見えていて背巾もそれほどない。背の後半部分が鱗が乱れているのも注目に値する。背折れもかなり深く見え背が高いと推察できる。

3:尾肩がない。こちらもハの字。

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横見の「名月」は確かに昭和40・50年代にも見られるタイプですが、尾は明らかに現代より劣っていると思います。こうやって見てくると、私たちがどこを重点的に改良してきたか分かりますよね。

また、宇野氏が執筆された『良否鑑別』の基準に沿ってこの2尾は良魚と判断していると考えられるわけですが、当時の鑑別のイメージと程度が、現代の私たちの基準とどれだけかい離しているか、または一致しているのかが理解できるのではないでしょうか。

私たちのイメージと字面だけで歴史的資料を見ていくことは、大きな間違いを犯すことがこれで分かるでしょう。

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2015年1月22日 (木)

『らんちゅう飼方の手引』~初版の考察~

宇野仁松氏が著わしたという京都金鱗会発行の『らんちゅう飼育の手引き』について若干の考察をしておきたいと思います。

本書の初版は、昭和9年(1934年)となっています。当時はまだ宇野仁松ではなく本名である仁平を名乗っている頃に発行されたものです。今から80年以上前ということです。(初版の存在は、I氏より情報を頂きました。)

その後、先生ご存命時に橋本泰雄氏によって改訂され、先生の校閲を受けたと聞きます。

また、この『らんちゅう飼育の手引き』は宇野先生唯一の著作と言われていますが、厳密には初版も改訂版も監修に留まっていると判断できる箇所が多数あり、【良否鑑別】という図解による解説のみが、宇野先生が書き下ろしたものであると確認できます。

初版の序にあたる箇所に以下のような文言があります。

本書は京都に於ける吾人の大先輩である宇野仁平氏がランチュウ飼育の実際に付き日頃吾人に話された事を骨子とし主として初心者の指導と参考として綴られたもので同氏の校閲を経たものであります。~ランチュウ良否鑑別の図解は今回本書発行の為特に同氏が大多忙中を筆執り更に詳細なる説明を伏せられたもので・・・・。(初版冒頭 編者識による)

Photo 初版の表紙(京都金鱗会編纂とある)


すなわち、当時の文筆に長けた方が、宇野先生からの教えや発言を、京都金鱗会の責任のもとにまとめたというのが当初の実態なのでしょう。だからと言って、この冊子の歴史的な重要性は変わるものではありません。

Img 宇野先生直筆による図解説明


さて、初版と改訂版を比較すると違う点や削除された所などが散見されます。時代にそぐわない部分などが変更されているのですが、大部分は受け継がれています。

飼育器具や飼育技術の発展から到底現在では考えられない記述もあるので、そのあたりを十分踏まえた上で参考にするべきでしょう。

本書の「良否鑑別」の図解説明も、今からすれば極々基礎的なものが多く、私たちが実際にイメージしているものと相違があるので十分注意が必要です。(当時の実際の魚の写真と比較すれば良く理解できます。これは別機会に。)

当時から周知されていて論じられていた部分で、削除された項目を今回ご紹介して考察したいと思います。以下長いですが引用いたします。

【種親の選択】
(※歴史的仮名づかい、旧字に関しては任意修正しています。読みやすいように適宜句読点と改行をしました。)
 

次に如何にして良魚を得べきかと云いますと、第一は親の選択などは第二義とし、数多く産ませさえすれば其の内に良魚が生まれるとする人、第二は鑑賞上申し分ない所謂良魚を選んで交配させるがいいとする人、第三は系統を貴び錯雑した交配を避ける人とあります。

第一は下手な鉄砲も数打ちゃ当る式で僥倖的であるをまぬがれません。

第二の方法は、現在大抵の人の試みて居る所ですが、中々親通りの良い魚が生まれて参りません。若しこちらの注文通り良魚が良魚を生むに定まったものなら、良魚の手に入らない人は、永久にいい魚を産ます事は出来ない訳ですが、決して事実はそうではありません。

第三の系統説ですが、これは理屈なしに良魚が生まれてきますので、この事は東京の老大家奈良翁も声を大にして叫ばれて居る所です。

現に、京都宇野氏の池に年々必ず相当な良魚の生まれ居るに徴しても明らかな事実であります。奈良翁の申されて居ます良系統は、東京鈴木徳治氏が先代石川亀翁より受け継がれた型で、これは京都宇野氏へも伝わって居ます。

宇野氏はこれを基調とし現代の名魚型を交配したり種々研究を積まれて居る次第です。

なぜこの【種親の選択】が削除されたのか理解できないのですが、この項目を読んだだけでも“宇野氏”という書き方から、宇野先生以外の人物が執筆していることが分かるでしょう。

ここで注目したいのは、

1.昭和の初期より、系統の重要性が理解されていたこと。

2.東京の老大家である「奈良翁」とは?

3.石川亀翁と鈴木徳治氏の名前が明記されていること。

こうやって見てくると、宇野仁松氏の系統は由緒正しい系統であったことが証明されているように感じざるを得ません。

また、“種魚”という概念が昭和初期に既に存在していたことが良く理解できます。鑑賞上申し分のない個体での仔引きより、系統を重視することの重要性を説いているにも関わらず改訂版では削除されていることは大いに疑問です。

上記の第二の方法を未だに多くの愛好家が採用していることが、当時既に認識されていたことが良く理解できます。ある意味、80年間進歩がないこともこれで露呈したようなものです。

宇野系らんちゅうの飼育方法が、最も伝統に即していると言えますが、反対に旧態依然としていることも初版との比較から読み取ることができます。

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2014年12月13日 (土)

宇野第一世代

京都金鱗会が日本らんちゅう協会を脱退する前後に、宇野先生の周りの若手愛好家を中心に「全日本らんちゅう愛好会」が結成されました。何故協会を脱退して、協会に対抗するような愛好会を立ち上げたかは、ここでは深入りしません。

第一回は別所春男氏の地元の鳥取で盛大に開催されたのですが、その時撮影された若手有力愛好家の集合写真が以下になります。

昭和54年(1979年) 鳥取県米子市 宇野先生78歳

3右から一番目 藤井四朗氏、四番目 寺崎吉彦氏、六番目 宇野仁松先生、八番目 宇田川英雄氏。(写真には総勢11名写っています)

鬼籍に入られた方のみ表示いたしました。ご健在の方は加工させていただいています。

この写真から読み取れることは、あまり仲が良いように聞かない方達も当時は宇野先生を中心に一堂に会しておられたということです。それだけ知識や情報は共有されていたのだと思うのです。要するに、魚の違いは今ほど分かれていなかったと推測されます。

宇野系でも指導的立場の愛好家の趣味嗜好が、次第に強く反映されるようになり、今日のように多くの宇野系らんちゅう愛好会が、林立することになったのだと解釈できるのではないでしょうか。

さて、宇野先生に肉薄していたのはどなただったのか。この写真が如実に物語っていると思うのです。

私はこの写真に登場される方達を中心に、宇野先生の薫陶を直接受けた愛好家を『第一世代』と呼んでいます。(それ以外にもここに登場されない方で重要な方達はいらっしゃいます。)

『第二世代』は、上記にご紹介した愛好家達が立ち上げた愛好会に入会して活躍された方達としています。(私はかろうじて第二世代に含まれます。)

そのように分類していくと、宇野先生との距離が見えてきます。先生の教えにしても直接聞いたことと、第三者を介すことによる温度差や、聞いたものの理解度によって教えも変質する可能性がどんどん増えていくのです。(→伝言ゲーム)

それを回避するためには、絶えず客観的な事実の確認を繰り返すことが必要になってきます。そうして多角的に物事を見定めていくことが大切になるのです。

宇野先生に対する『大変な誤解』は、そのような検証抜きの無責任な思い込みによる風説の流布が横行していることにあることを理解して欲しいのです。

【お知らせ】
留吉様の登録されたメアドにメールをさせていただきましたが、今現在返信はありません。公平を期すための措置を無視されたものと受け止めます。考え方の相違に基づく議論は大変有意義だと思っています。ただ納得のいかないコメントに関しましては、理解していただけるよう最善の努力を惜しみません。 今後ともご愛顧よろしくお願いいたします。

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2014年12月11日 (木)

寺崎氏の真意~宇野先生の教え~

 

久しぶりに日本らんちゅう愛好会の会報を見ていたら、寺崎氏が書かれた文章に、宇野先生とのエピソードが記されていたのでご紹介します。

 

宇野系にとって象徴的なエピソードなので何度かこのブログでも触れさせて頂きましたが、こちらに書かれていたんですね。

 

当時、日本らんちゅう愛好会は、他の会に比較して“尾が弱い魚”が上がっていることに疑問の声も聞こえたものです。私も当会に出陳するときは、少し尾が弱い魚でも魅力がある魚は積極的に持って行ったものでした。寺崎氏がモットーとされた審査の方針が垣間見えるので引用させていただきます。

 

「本年度を顧みて」 平成17年度

 会も長く続けていると口コミであの会は少々のキズがあっても良いところがあれば上げてくれるということで、多少のキズがあっても出陳してくれますので他の会では見られない良魚に出会えてありがたいです。

 

やはり確信犯だったんですね。日本らんちゅう協会で遊んでられた、バリバリの会魚志向だった方がどうしてそのような考えをされるようになったのか?

 

その後に続く文章に答えが載っていました。

 

昔、宇野先生のお供をして和歌山の会に行った時(私がまだ若く生意気な頃)のことですが、親の大関に誰が見ても判る外マクレの素赤の魚が上がっていました。生意気にも先生に「あの魚が大関でいいんですか」とお聞きしました。(当時私はまだ日本らんちゅう協会で遊んでいました)すると先生は「寺崎さん、今日のこの会の魚の中からあの魚より良いのがあれば持ってきなさい」と言われて初めてらんちゅうはキズで見ることではなく、その魚の良さを見るものだと解り、それ以降機会があることごとに先生の後をついてまわって先生を怒らすようなばかな質問をしたりして勉強させてもらいました。

 

なるほど。含蓄のあるお言葉ですよね。外マクレの魚が優等に上がる意味が分かりますか?宇野先生は、尾だけを見ていたんではないことがこのエピソードで明らかです。

 

尾マクレを出陳された方は、意図的に持って行かれたのかどうかは定かではありませんが、いずれにしても、普通品評会ではそれだけで審査の対象とされません。ですから、会を目標にされている愛好家は、他の部分が良くても早期にハネます。

 

宇野先生は、言下に「この尾が悪い魚より、他の魚は良くない。」と言っていることだと理解できますよ。まさに「悪い魚は悪い。」って言ってますよね。

 

かくして尾が良い個体は残りますが、他の部分の形質が一段落ちた個体が多く残ることになります。仔引きは、要は良形質を如何に大量に残していくかが課題であるとはそういうことだと思うんです。

 

このエピソード一つをとっても、寺崎氏は宇野先生の教えを実践されていたのが理解できると思います。

 

尾や泳ぎを優先されていたら、このお話しは理解できないのかもしれませんね。(^^;)

 

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2014年6月 4日 (水)

宇野らんちゅうの系譜

『金魚の飼い方入門』昭和54年発行(1979) 金園社 桜井良平

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何度かこの写真はご紹介していますが、1970年代に頭部肉瘤がこれほど見事ならんちゅうが居たのに、何故今は居ないのかという根本的な疑問を問題提起してきました。

現代より1970年代のほうが優れている。私は率直にそう感じるんです。

らんちゅうは、昔より今のほうが“進化”しているという、単純な進歩史観は嘘だと気が付いたのです。

端整なメリハリの効いた立体的な顔のらんちゅうは滅多にいない。

獅子頭がらんちゅうの代名詞のはずなのに、その獅子頭がどういうものかを愛好家の誰も知らないという現状はいかがなものか。

どうやら宇野仁松と一部の人たちしか、頭の重要性を説いてこなかったという事実が分かったんです。

何故その頭の重要性を説かなかったのか。
宇野仁松は別だが、ほとんどの指導的立場の愛好家は個人主義的であったのが災いしたのだと思うのです。基本、品評会を目指す競争なので、弟子といえども競争相手なのですから、大事なことや秘伝的要素は教えないものなのです(今でもそうです)。

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上の画像は故藤井四朗氏の魚です。撮影されたのは1990年。今から24年前ですね。その10年ほど前の画像が桜井氏の本の更紗魚です。似てますよね。

藤井氏の種魚なのですが、この魚を見ると、明確に氏は頭の重要性を認識されていたことが見て取れます。

他にも例を挙げることが出来ますが、この一枚の画像だけで多くのことを物語っていることは明白でしょう。

この素赤が撮影されてから24年後の今、私たちは獅子頭とはいかなるものか意識もせず、スタンダードの肉瘤すら知らずに、らんちゅうを嗜むことになっているのが現状なんです。

16歳

宇野仁松の池から出て、営々と保存し維持することの難しさ。一度形質を無くせば元に戻すことの困難さ。

宇野らんちゅうでも宇野系らんちゅうでも宇野式らんちゅうでも良いんです。“古い、新しい”もありません。形質を消失させてしまった愛好家が、自己を正当化するために「古い(からいらない、流行らない)」と言ってのけてしまうのです。

系統を維持するということは、色々なタイプ、バリエーションを池に種魚として置いてはじめて改良することができるはずです。

形質が失われそうになったら、古いタイプから補う必要があるはずです。しかし古いタイプが池に居なければ魚はどんどん“形質が劣化”していくのだと思うのです。(※便宜的に「古い」と呼んでいるだけです。)

宇野仁松→桜井氏の更紗魚→藤井氏の素赤→6歳魚。(※見れば明らかに系統って分かりますよね!)

宇野仁松の魚をやっているからには、30数年経っても面影が残る魚が居なければ嘘になると思いませんか。

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2014年5月11日 (日)

“宇野系らんちゅう和歌山 仁”発会に寄せて

早速にしきさんから“宇野系らんちゅう和歌山 仁”の資料を頂きました。ご紹介します。

A4紙6枚に書かれていることは、

・「宇野系らんちゅう新会設立趣旨書」

・「会則」

・「審査規定」

・「審査規定の運用にあたり(宇野先生語録より)宇野系らんちゅうの観方と魚づくり」

からなっています。

特に「趣旨書」はA4裏表2ページにびっしりと、にしきさんの思いが詰まっています。

送付された資料の冒頭に「新会総会資料」として、なんと宇野先生のあの言葉が引用されていました。

「捨てておられる金魚にええのがおるに決まってます。」

にしきさんは、この言葉をチョイスされたんですね!この言葉の意味が理解できなかったら宇野系をやっている意味がないと常々ふんぺいも言っていることを、新しい会の一番最初の言葉にされたことに大いに感銘を受けました。

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宇野先生は和歌山の審査の時、尾まくれを優等にあげられたと聞いています。

「これより良いのが居ますか。」と仰ったそうです。この話しはにしきさんからも、故寺崎氏からも聞いています。お二人ともどれだけ衝撃を受けたことでしょう。先生は、尾だけを見ているわけではないことが、この一件だけでも証明されたようなものです。

そんな和歌山の地に、新しい会が出来たことは必然であったのかもしれません。

趣旨書の随所にその宇野系らんちゅうに対する熱い思いが書かれています。少しご紹介すると、

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宇野系らんちゅうを「宇野系(京都式)らんちゅうとは、宇野仁松翁の趣向により作ってこられた舞妓さんを連想させる美しい、艶やかさのある、味わい深いらんちゅう」と定義し、新会は、大きくするための「作為的な温度管理」や「少数精鋭主義的な残し方」を退け、「京都式」の「美しい肌を持ち、背が低くきれいで、太みを持った魚」を「自然に育て、親で仕上がる」ことを目標にされています。

「譜面どおりに音程をはずさないで歌ってカラオケ100点を目指す魚ではなく」や「規格品よりオーダーメイド」という表現は、「欠点を指摘して消去方式に魚を残すのか、欠点をカバーする良いところを見て魚を残すのか」という宇野らんちゅうの大本の部分を主張されているんですね。

それは端的な言葉としての“宇野イズムの追求”に収斂することでしょう。

結びの言葉として

「宇野系らんちゅうをはじめて観たときの衝撃、あの衝撃を次の世の人に伝えたい。原点に立ち返り、思いを同じくする同志、こだわりをもって伝承しようではありませんか。」という熱い思いで結ばれ、ふんぺいは大いに共感しました。

宇野系らんちゅうの真価を是非知らしめていただきたくご活躍を期待し、陰ながら応援したいと思う次第です。

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2014年5月 7日 (水)

地殻変動~“宇野系らんちゅう和歌山仁”発会~

ここ数年、協会系らんちゅうにおいて色々な動きがあったことをご存じの方も多いことでしょう。

光田会長死去に伴い大阪錦蘭会分裂。

遅れること、日本らんちう協会の分裂と社団法人日本らんちう協会の設立。

協会の分裂と同時に、傘下の全国の愛好会がどちらに所属するかということで揉めて、反目と締め付けを繰り返す云々。

らんちゅう界も喧(かまびす)しいことしきり。

そんな分裂騒ぎに嫌気がさした協会系らんちゅう愛好家が、宇野系に流れてきているという話しも聞くような今日この頃です。

翻って宇野系らんちゅう愛好会を見てみると、実は昨年の日本らんちゅう愛好会解散に伴い、色々なところで多かれ少なかれ影響が出てきているように思います。

大きな受け皿が喪失したことによって、既存の愛好家の動きが注目されていたのですが(注目していたのはふんぺいだけかも?(^^;))、ここにきての新しい動きについてご報告したいと思います。

①関西の旧日本らんちゅう愛好会の有志によって、奈良に本拠をおいた『新日本らんちゅう愛好会』が発会した。

②京都らんちゅう会系の門真の会が佐々木会長死去に伴い、場所と活動の場を和歌山に移して発会。

③和歌山の宇野系らんちゅう愛好家を中心に『宇野系らんちゅう和歌山仁』が発会。

以下③について詳細が分かりましたので注目してご紹介したいと思います。

まず、見ていただきたいのは会の名称です。『宇野系らんちゅう和歌山仁』!!!??

「~会」とか「~愛好会」って入ってませんけど!なんと斬新な、なんと意表を突く。で、なんと読むか?「和歌山仁」→「わかやま じん」だそうな。

“宇野系”という言葉に敬意をこめて冠にして、発会の地名として“和歌山”を入れ、最後に“仁”。

最後の“仁”には何が込められているか? 聞くと、慈しみ、他人と親しみ、思いやりの心をもって共生を実現したいという壮大な理念を表しているそうで、趣味の会もここまで理想を掲げられると中々頼もしいです。いいんじゃないですか、好きですこういうの。

実は会長さんは、こちらに時々登場してくださる「にしきさん」こと吉田稔氏なんです。(名前出しちゃっていいですよね。)

にしきさんは、鶴来らんちゅう友の会や日本愛らん会の審査員をされ、もう数が少なくなった宇野先生と同じ空気を吸い、先生の薫陶を受けた方なんですね。

ご活躍をお祈りしています!

詳細は以下のブログに発会の記事があります。ご覧ください。

『発会のお知らせ』
『宇野系らんちゅう日向日和』より

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2013年12月 6日 (金)

哀悼 寺崎吉彦氏

先日、寺崎氏の奥様から一通のはがきを頂きました。

10月8日 76歳 永眠

また一人、宇野仁松を知る方が居なくなりました。

私が山登りをするようになったきっかけも寺崎氏でした。ネットでの私の活動に注目していただいて、早くからお墨付きをいただいたのも寺崎氏が一番早かったと思います。

昨年の品評会時、昼食を共にさせていただいたのが最期となりました。その時、奇しくも私が「これから先、会を存続するにあたって後継者とかどうされるんですか。」と質問したのを覚えています。

寺崎氏は、弁当に目線を落としたまま「そんなもん、なるようにしかならへん。」と仰ったんです。その時には体の異変は無かったんですが、何か未来を暗示していたかのように今にして思えば感じます。

毎年の品評会の期日を待たずに逝かれたんですね。

去年まであんなにお元気だったのに・・・・。多くの会員を擁した会を運営し、宇野系の一時代を画した愛好家がまた一人この世を去ったのです。まだまだお若いのに。。。。

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見た目より甲高い声で豪快な笑い声が、昨日のように耳に残っています。寺崎氏はしっかりと宇野系に足跡と遺言を残されました。

氏の願いであり遺言である、いつの日か高い志のある会が登場するのを待つことにしましょう。それが寺崎氏率いる日本らんちゅう愛好会のように、多くの愛好家が集う仁松翁の教えを実践する会にならんことを願って。

謹んでご冥福をお祈り申し上げます。

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2013年11月 2日 (土)

幻のらんちゅう

『金魚の飼い方入門』昭和54年発行(1979) 金園社 桜井良平

に奇妙な更紗らんちゅうが掲載されています。

Img_0003補正前(本に掲載された色)

Img_0003a補正後(ホワイトバランスを洗面器の白色に合わせて補正)

典型的な獅子頭。重厚な兜巾を頭部に搭載して、大きな塊感で“顔”を表現しています。胴体は背だしは低く峰を見せない仕上がり。宇野系を代表する腰白に出て、色は決して薄くはなく中間色。(印刷色なので実際の色は想像する以外ありません。)

これぞ!宇野らんちゅう。古いタイプではありませんよ!これがスタンダードなんです。

そうふんぺいは呼びたいのですが、何故か今では見かけないんです。逆に言うと、すでに昭和50年代にこのタイプのらんちゅうが居たんです。以前もご紹介しましたが、金魚は改良種なので、一般に使用される『進化』という言葉に私は違和感を感じています。

らんちゅうが進化しているとしたら、現在はこのようならんちゅうで競い合っていて欲しい。なのに現在は見かけることはありません。

かくしてこの更紗らんちゅうは幻のらんちゅうとなりました。

Img_0001

因みに同書には、モノクロ写真で同様の個体の画像が掲載されています。更紗らんちゅうでこれほど均整な肉瘤の個体を見たことありますか?上の個体はしかも船底!

宇野先生の池から出たらんちゅうと推測されるんですが、何故このタイプのらんちゅうがどこにも居なくなったのか?もうその理由はこのブログで散々書いてきていますので、分からない方はブログを丹念に読み込んでくださいね。

Dsc_39793歳

昭和50年代の個体とうちの個体、少しは近づいているでしょうか。幻のらんちゅうの復元とまでは到底行っていませんが、何を改良して何を残すか、これがらんちゅうの進む道!と言いたいんですが。

関連エントリー
『らんちゅうが進化していない理由』

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2013年10月 3日 (木)

宇田川式らんちゅう2

上州さんと、あるベテラン愛好家のご厚意で、フィッシュマガジンに掲載された宇田川氏に関するルポを入手しましたのでご紹介します。(1990年代で掲載年号は未詳)

『らんちうの飼育環境と名魚作出の秘訣2』と銘打って、神鋳会の野木一男氏が各愛好家の池を訪問して、氏の生業でもあった水質調査をランチュウ飼育に応用した独自の視点でのルポの連載があったんです。その一回に宇田川氏のお弟子さんの池を訪問されたのが掲載され、その文の中に宇田川氏のらんちゅう飼育の方法論が紹介されているんです。

【選別について】

産卵は5月に入ってからとのことで、産卵後の本格的な選別は7月中旬から8月初めの色変わりが終了してからだそうです。このため一つの池で当才魚が2歳魚になる尾数は500尾前後になるそうです。 

私が訪問しました4月中旬での明2才魚は体はえんぴつサイズで、体長は約4cm前後でした。

やはりそうなんです。ここにも宇田川氏の選別方法が記載されています。本格的選別は色変わり以降。そして明二歳春で一池500尾。池の大きさは150cm角と思います。明らかにこの時点で4cmなら、当歳時では品評会には間に合ってなかったわけです。

何故それだけの数残すのか?

尾と遺伝しないキズで種魚になる魚を捨てないため。すなわち、会魚ではない極上の種魚を探し出すために。頭と胴の質を見極めるためには、当歳では分からないから数多く残す。

【形質の分類】
初めは、宇野系ならなんでもよいということで交配をしたそうですが、結果は失敗に終わったそうです。そこで、宇野系を便宜上、頭(かしら)の仕上がり方、色彩の豊かさ、柄模様別に次3つに分類したそうです。

 5系統は、ときんが比較的口先に近く背幅があり、色は薄く、さびが速いが目先はある。4系統は、色はきれい、ときん頭で目先はある。3系統は、色がきれいで、頭部のときんがなく目先はきわめてある。小沢さんによると、この345の系統は東京地区の宇野系愛好者が宇野先生から種親魚としていただいたものを区別するために用いている数字だそうです。

“宇野系ならなんでもよい”…当時もうすでに宇田川氏のグループは気が付いておられたんですね。形質が消失した宇野系が数多く存在することを。

なるほど、宇野先生から頂いた種魚を便宜的に区別するために、その仔を3、4、5の系統としたわけですね。ただ何故5の系統と命名したのか、あるいは3の系統としたのかは書かれていません。数字の意味はここでは不明なんですね。多分意味があるのでしょうが。

「せめて頭だけでも種類を分けてわかってほしい。」とは宇野先生の言。

こうやって見ていくと、当時、氏は宇野先生の考えを忠実に実践されていたと推測されます。その後、新たな発見や考えを付与されながら独自の方向へと進まれたと私は考えています。

宇野先生晩年の池に小さい当歳が数多くいたという証言は、ここにリンクするわけです。先生は「年がいってエサが行き渡らないから小さくしか飼えない。」と仰っていたようですが、それは会魚しか分からない人には、そう答えていたに過ぎないのです。だってエサは当時からマス餌のはずですから、採取するようなこともないはずだったんですから。

“宇野式らんちゅう”の理念は、宇田川氏の考えを理解できれば目の前が開けてくることがこれで分かるのではないでしょうか。

 

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