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2011年12月

2011年12月30日 (金)

しんかい6500

先日、アマゾンでふと目に付いたのが新発売のプラモデル、『しんかい6500』。

世界で最も深く潜ることが出来る有人潜水艇。

なんか親近感が湧くフォルム。あっこれらんちゅうだ!!なるほど。

なもんだから即座に購入。おもむろに塗料まで購入して制作したのがこれ。

エアブラシじゃないから色ムラがあるけど、ま目をつむりましょう。

Dsc_3006

ほら、らんちゅうにそっくりでしょ?トキンまで搭載してます~♪

Dsc_3007

上から見ると、背幅までくっきりと色分けされちゃったりして。
肌色が背幅、体に沿った白い部分が腹幅です。普通のらんちゅうは白い部分の量が多いから幅があるように勘違いします。

ん~、見飽きないフォルムだ。癒される~♪

次はハヤブサだ!(新幹線じゃないよ)

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2011年12月29日 (木)

進化と改良

ダーウィンの「進化論」以来、私たちは“進化”という言葉をあまり深く考えずに使用するようになりました。

“らんちゅうの進化”ということを良く耳にするのですが、ふんぺいはいつも違和感を感じていました。

進化という用語について厳密とまでは言いませんが詳細に検討してみましょう。

進化とは?

【1】生物の形態・形状が、簡単から複雑に、下等から高等へとしだいに変化・発達すること。

【2】社会が未分化の状態から分化したものへと発達すること。

【1】は生物学的見地からの説明。【2】は人間の文明論的見地からの説明と言えます。良く見かけるのは【2】的意味で【1】を説明する誤謬です。例えば、単細胞生物から人間に変化するのは“進化”と言えます。下等なものから高等なものへと変わること。

翻って退化とは?

【1】生物の器官・作用などが進化の方向と反対に複雑なものから簡単なものに、あるいはまったく喪失すること。たとえば人間の尾骨、男子の乳房の類。退行。

【2】進歩しない以前の状態になること。あともどり。----広辞林

実は、“進化”の対義語は“退化”ではないんです。退化は、進化の途上の一バリエーションなんです。辞書で明らかなように定義として退化は、人間の尾骨のようなものなんです。生物学的には成立しない言葉を否定的な、あるいは後ろ向きな意味合いで“退化”と称して【1】の意味で使用することはあり得ないんです。

進化が善で退化が悪のような感覚も間違っていると思うのです。これを“進歩史観”と呼ぶことがあります。
社会発展などは、封建時代(中世・江戸時代以前を唯物史観ではそう呼ぶ)から近代を経て進歩して現代に至る、みたいな。歴史学を勉強した人ならみんな判っていることですが、江戸時代や室町時代が決して現代より劣っていたと一概に考えられないんです。このような考え方を、そのまま生物学的な現象に当てはめることは出来ないんです。

改良品種において仮に進化していると考えると、後戻りやいわゆる“退行”などおこりえないはずです。進化の“不可逆性”が論じられなければ嘘です。人間の手を離れてすぐに野生化したり死滅するのなら進化という言葉とは無縁であるように思うのです。

改良品種の場合は、改良度合いが後戻りするなど、遺伝的に不安定で危ういものなのだという認識がないといけないのだと思います。

二三代で後戻りするような進化は進化と言わない。改良途上の一過性の個体群としか言えないと言っても良いのではないでしょうか。

“らんちゅうの進化”という言葉で、不安定な改良過程を、あたかも後退することがないようにいうのは欺瞞であり誤認であると思うのです。

犬で考えてみましょう。

犬の原種はオオカミだと言われています。オオカミを家畜化して次第に愛玩犬など多岐に渡って人間の好みにあわせて“品種改良”されてきました。

これを“犬が進化した”あるいは“犬を進化させた”と言うでしょうか。言いませんよね。人為的に手を加えて改良を進めただけですよね。らんちゅうも同じことが言えると思います。改良品種が進化するはずがないと思うのです。何千年単位で考えた場合、結果的に進化と捉えられることはあっても、現状を“進化”と捉えてしまうと思わぬ陥穽(かんせい)に陥ってしまうと考えるのです。

一旦改良の手を休めてしまうと元に戻ってしまうことは、これ以上例をあげる必要はないでしょう。以前にも『らんちゅうはゴムひものようなもの』と申し上げたのを覚えていますか。

実は、先人や仁松翁も“退化”という用語を、間違った使い方をしていました。当時の使用方法は、社会的な進歩(=進化)や後退(=退化)を、生物学的な意味と混同して使用していたと私たちは認識するべきです。但し、仁松翁はそのように用語を使用していましたけど、改良の真の意味を理解されていたことを文脈から読み取ることはできますが。

我々愛好家が出来ることは、今眼前に現れた形質を保存維持すること、または如何に次代につなげるかという方策を打つこと、これぐらいしかないはずです。進化と考えるなら、一方向にしか行きませんから、放っておいても形質は次代に受け継がれるはずです。そんなことないですよね。

らんちゅうは不安定な遺伝形質しか持ち合わせていないんです。タイトロープを渡っていると考えても良いのではないでしょうか。そのような認識があってはじめてらんちゅうの改良は“進歩(進化→×)”するんです。

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2011年12月25日 (日)

蔓牛(つるうし)

150年ほど前から中国地方の山間で、遺伝学の知識の無い頃より黒毛和種の固定化が行われていたそうです。

芋蔓のように元を辿ることが出来る牛を『蔓牛(つるうし)』と呼んだのだそうです。

●特定の優良形質に関与する複雑な遺伝因子が相当程度にホモ化された系統。

●特定の優良形質を完全に具備、顕現している個体を蔓牛と称する。

「世界に類例のない和牛の「サシ」の入る牛の基礎作り」がこの考えのもとに保存されていったとのことです。    『動物遺伝育種学入門』新城明久著より

長年に渡る改良は、一朝一夕で出来ることではないことを物語っていますよね。元を辿ることが出来る牛。らんちゅうはどうでしょう?もう三代も遡れば闇の中ではないですか?

ずっと遡れると言っても、“優良形質を完全に具備、顕現”している個体ですか?“ホモ化”しているのでしょうか?

“顕現”、明らかに表れること、表現型。ちゃんと意識していないと形質はホモ化しないことを経験的に中国地方の先人は知恵としてあったのでしょうね。どうやらその肉質である「サシ」に関しては、記述から類推するに副産物であったようです。

いずれにしても、「蔓」という概念は現在の「系統」と同等の意味なのですが、“蔓らんちゅう”がこの世に存在しているか、という問いには、かろうじて宇野系らんちゅうがそれにあたると断言しても良いのではないでしょうか。

種牛、蔓牛=種魚、蔓らんちゅう

育種という視点でらんちゅうを考えることが大切と思うのです。

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2011年12月22日 (木)

鱗並びに関してのふとした考察

『金魚大鑑』を読む~5~でらんちゅうの鱗並びについて考察しました。今読んでもなかなかの出来かなと思っています。

宇野系らんちゅう愛好家間では、“鱗並びが良いものが良品”というセオリーがあるわけですが、先日、フトしたきっかけでこんなこと考えました。

自然界の魚類はおしなべて鱗並びは整然として綺麗である。

鮒だって鯉だってそういやみんな綺麗に鱗並んでますよね。個体の見分けが出来るほど特徴的な差はないですよね。むしろクローンのように大小の差はあっても一緒です。

何故自然界の魚類は個体差が無いのか?

多分それだけ遺伝因子が安定的なんでしょうね。反面、らんちゅうの遺伝因子がどれだけ不安定なものかを、ある意味表わしていると言えるのかもしれません。だからそのほうがらんちゅうらしい?・・・

我々が単純に当たり前と思っていることも、実はそうではないということは沢山あるんですね。どれが真実なのかは判らない。そして思い込んでいることの多さ。もう一度考え直さないといけないのかも。

宇野先生が『金魚大鑑』で「らんちゅうは少し鱗が乱れているほうが良い」等の発言をされているのは、そんなことを念頭に置かれていたのかもしれません。そのように思えてきたのです。

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2011年12月13日 (火)

『金魚百科』を紐解く~蛙目の検証~

『金魚百科』には、「高級金魚の選別基準」という項目があります。

図解をしながららんちゅうの欠点が列記されています。そのうちの頭部で特に私が注目した部分を検証していきます。

Photo_3
右上、 (1)頭の振り(首曲がり)
真ん中、(2)目先なし(おかめ)
左    (3)目下なし(とんがり)

右下、 (4)鰓肉なし(頬なし)
真ん中、(5)蛙目
左、   (6)口曲がり

(2)目先なし(おかめ)の記述。??“おかめ”って目先なしのことでしたっけか?? 誤認のような気がします。“おかめ”という名称は下ぶくれを意味すると思うのですが、これはどう見ても“おかめ”には見えないと思うのです。別の場所で「頬の盛り上がりの良いもの」が“おかめ”との記述があるんです。そう見ていくと、一概にこの図解全てを鵜呑みにして検証しないと誤認してしまう恐れがあるということです。

(3)目下なし(とんがり)は、何となく納得しますね。

それはともかくとして、さて、次の(5)の蛙目が今回の注目点です。

本書においては、ご覧のように“蛙目”は欠点として記述されています。目先が無く、目の位置が外側に付いている個体をそのように呼んでいたようです。図解の個体は、どちらかというと出目に近いです。

実は、複数の愛好家から“蛙目”を欠点としてではないように聞いています。

ある愛好家は、上のような個体を目幅のある個体として残すようにしていると聞きました。つまり欠点としては見ていないわけです。目幅=頭幅という方程式を当てはめたからだと思われます。
また、ある愛好家は、下の画像のように、目が横に付いているというより、頭部の上側に付いている個体を“蛙目”と呼んでいるように聞きました。
Photo_4
ふんぺいは、どちらかというと蛙の目は上の画像を想像していました。

蛙目の捉え方で、全く反対の意味になってしまうのがこれで判明したわけです。

真横に出目傾向の個体を“蛙目”と呼ぶのか、はたまた頭部骨格より上に付いているのを“蛙目”と呼ぶのか、または、ただの欠点として淘汰の対象とするのか。用語の混乱はここにもあるわけです。

仲間うちで使用している分には良いのですが、これをあたかもみんなが同じ思いでいるように勘違いするところから、不幸がはじまるのです。愛好家の大多数の共通認識として浸透している用語の構築は、このような検証を一つずつ積み上げるのが必須なのだと思います。

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2011年12月12日 (月)

『金魚百科』を紐解く~二階建ち~

『金魚百科』、私が注目する用語やら何やら、出るわ出るわ。
さすが桜井良平氏渾身の一冊です。

今回は“二階建ち”について。

Img_0005
キャプションを上から。
「やや出腰ぎみ」
「二階だちの傾向」
「背下りがやや深い」。

上2尾はどちらも背が高い。“二階建ち”の意味が判りますよね。頭の後ろから背が始まりますが、ぐい~んって上に円を書いてます。本来なら頭からほとんど水平に後ろに来ないと背が低いとは言えません。一番下のような背がまだ良いと言えるんですが、これでもまだ高い。そしてキャプションの「背下りがやや深い」は、私は少し的ハズレのように思います。なぜなら背が低ければ、尾付けにかけて背下りが急でなければバランスが取れないから。

それより“二階だち”という用語は、仁松翁の薫陶を受けた方からしか聞いたことがありませんが、ここにしっかりと画像を含めて列記されていることに感動すら覚えます。当時から、そのような用語を使いながら、意識していたことが理解できるからです。

“櫛のような背が良い”などと良い習わされていたのに、全く真逆のことを仁松翁は仰っていたことが証明されたようなものです。

現在でも“らんちゅうは上から見る金魚だから横見はちょっとぐらい高くても良い”なんて仰る有名愛好家が居ますけど、そのようなお方は、昭和40年代に戻ってもらわなくてはいけませんね。

嫌な肉が背に盛っているものを“二階建ち”と言う。

桜井氏は仁松翁から多くのことを学び、書きしるしてくださったんですね。
Img_0003a 本書に紹介されている仁松翁

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2011年12月11日 (日)

『金魚百科』を紐解く~肉瘤について

引き続き『金魚百科』をテキストに。

Photo_2 
キャプションには、上が獅子頭、下が龍頭との表記が。
下の画像は、龍頭というよりこちらのほうが、どちらかというと獅子頭ですね。トキンと目先のフンタンが十分に発達しています。現存する龍頭は、前方に付くフンタンの豆だけに萎縮したものしか見ないようになっています。

このサンプル個体も恐らく仁松翁の池から輩出されたものだったのでしょう。これを見ただけでも現在のらんちゅうが“進化”したとはお世辞にも言えないことが判る写真ですね。

2
こちらは東錦の兜巾頭との表記があります。
見事ですね。現在でも一部の東錦に見られる兜巾頭ですね。らんちゅうではほぼ見られません。親になるまで頭が出るか出ないか判らないので、らんちゅうの場合は早期に淘汰されてしまったからなんですね。

東錦やオランダシシガシラには、肉瘤のバリエーションが僅かながら残っていますよね。“兜巾頭”という用語は、東錦やオランダシシガシラの専売特許じゃなかったはずです。らんちゅうもこのバリエーションを大事にしないと本当はいけないのだと思います。

何故大事にしないといけないのか?

顔に個性が無くなるから。らんちゅうの鑑賞価値が下がるから。薄々皆さん気が付いているはずです。頭の四角いらんちゅうと尖がり頭なら、どっちがいいか言うに及びませんよね。それを突き詰めて考えるとどうなるのか。それがらんちゅうの特徴のはずなんです。

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2011年12月 8日 (木)

『金魚百科』を紐解く

先の『蘭鋳花傳』と同様に、往年の金魚の書籍を渉猟して長い冬を過ごしたいと思います。

『金魚百科』桜井良平 昭和47年発行 何度も読み返した本の一冊です。

京都金鱗会の会員であられ、松井佳一先生に師事された桜井氏の文章は、どれも格調高く、しかも平易に書かれていて、金魚全般に対する愛情が伝わってきます。

今回は、手始めに『金魚百科』に紹介された画像を中心にお話しを進めていこうと思います。

さてまず、宇野仁松翁のらんちゅうと思われる画像からご紹介します。仁松翁か、もしくは金鱗会の副会長であられた桜井宏悦氏の魚であるのは確かなので京都の魚です。このことは、直接著者の桜井良平氏に聞いたことなので間違いありません。つまり昭和40年代の宇野先生の系統であるということです。

1
この2尾の親魚を見て感じたことはありませんか?当時のらんちゅうと比較して、どちらも胴の質や頭の質が格段に良いことが判ります。

2
最初の画像の上の素赤の魚の別角度の画像だと思われますが、頭のトキンが良く判ります。白黒写真ですが、この色の濃淡からかなり濃い赤であったと推測されます。つまり猩猩と言っても良いかもしれません。

そうなんです。既にこのような個体が昭和40年代に居たんですね。このタイプの魚は当時にしても最新鋭だったのだと思います。そんじょそこらでは見られないタイプだったんでしょうね。だからこそ画像として残ったと言えます。

上掲の画像を見て、今にしてみれば「古いタイプだ。」で一蹴される愛好家が居るとしたら、らんちゅうの本質を理解できていない御仁であると言われても仕方ありません。

今ある系統は、どのような経緯で今現在あるのか?その位置関係が判っていなかったら、改良が進んでいるのか、後退しているのか判らないじゃないですか。だから歴史を紐解くことは、大事なのだとふんぺいは思っているんです。

3
さらに“面被り”も紹介されています。色の改良はこの時期に最高潮に達しようとしていたんでしょう。その成果は、このように桜井氏のご本に紹介されるまでになっていたんだと思われます。上の魚が親で、下2尾がその仔だそうです。仔は目下が白く、尾や鰭が洗い出していますね。図らずも面被りの累代繁殖が困難なことを、立証しているようにも感じられます。

まだまだご紹介したいことは一杯あるのですが、今回はこれまで。

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2011年12月 7日 (水)

種魚の考え方

こんな考え方してはどうでしょうか。

頭と胴と尾に分けてその形質度合いを数字で表わしてみましょう。
それぞれを10点満点として形質を表わして見ると。

頭 胴 尾
10 10 10  究極のらんちゅう こんなのは居ません。(^_^;)

頭 胴 尾
7  7  8  会用のらんちゅう 
可もなく不可もなく、尾が基準なので頭も胴の質もこれぐらいにしかなりません。

頭 胴 尾
10 8  3  種用のらんちゅう
尾と頭は一般に反比例しやすいと言われています。愛好家はこのような個体はハネ出してしまいます。この形質を維持していて尾が8点の個体が居れば申し分ないのですが、まずもって出ません。

らんちゅうも改良品種なので、親に似ないと系統とは言えません。同時に親以上に良い形質が仔に出るかと言えば、ほぼ無いと言っても過言ではないでしょう。だとすると、形質の維持をどうするかを考えることが重要になってきます。

さて会用のらんちゅうは、ある意味妥協の産物と言えます。例えばの話しですが、一般に頭の形質が7点以上のものを、大半の愛好家は目にすることはありません。仮に見てもそれだけでは会で評価されないので、その価値が判らないか見過ごすことが多いです。なので7点で良いと勘違いしてしまうか、その上があるとはよもや思いません。でも本当は形質が10点の個体のほうが良いに決まっているんです。ですから比較する物差しがない大半の愛好家は7点で満足してしまうのです。

“宇野系らんちゅう”と称していても、頭と胴の質を二の次にするのであれば、一般のらんちゅうと大差が無いことを肝に銘じるべきだとふんぺいは思っています。

突き詰めて考えれば、会でお目に掛からないスゴイ形質は残っているところには残っていると思うのです。

頭 胴 尾
5  5  8 なんて個体も良く会でも上位に上がってますよね。

でも
頭 胴 尾
9  9  5 なんて個体は貯め池に残っているのなんてザラです。尾が5点なだけに他の形質がいくら良くても貯め池なんです。

会で上位に上がるために、まず尾が8点以上のものを愛好家は優先します。そして貯め池の個体で(評価されない個体)敢えて仔を採ろうなんて普通は考えないですよね。だって尾が遺伝したら弱い尾しか出ないと思い込んでいるから。

こうやって頭と胴の形質は見捨てられていくのだと思います。この選抜方法を10年も続ければ、頭と胴の形質はどんどん薄められて、肉瘤が出にくい背の高い個体ばかりが残ってくるのではないでしょうか。そのかわり尾は抜群の個体は残るでしょうが。

一般のらんちゅうでも目先に大きなフンタンが付いた個体を見ることがありますが、それもそのような形質を残すように“意識して”掛け合わせを考えたから出現しているのです。決して無闇矢鱈と掛け合わせて出て来ているのではないのです。同様に餌でそのようなフンタンを作るなんて考えるのはナンセンスです。

頭と胴の形質を残しつつ、または改良しつつ、尾が良い個体で会では遊べばよいことなんだと思うんです。そのような割り切りをしながら、種魚を残す作業を意識的にしない限り、「アハ!体験」よろしく、いつの間にか形質が消失して気が付いた時には、名前だけの普通のらんちゅうばかりになってしまっている危険性をはらんでいるのだと思うのです。

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2011年12月 5日 (月)

アハ!体験の教訓

一時、茂木健一郎氏が提唱した「アハ!体験」が話題になりました。

いわゆる脳に良い体験、脳を活性化させること、「アハ!」という気付きが脳に良いという意味だったと思います。

ネットで「アハ!体験」で検索すると、色々な動画が公開されています。是非体験してみてください。

具体的にどんな体験かというと、ある画像があって30秒ぐらいの間にその中の一部の色や形が変わって行くんですが、それがじわじわ変わるので人は認知出来ないんです。それを茂木氏はその変化に気付いた時「あ、そうなんだ!=アハ!」って思った時、脳は活性化されるというわけです。

その活性化の意味が良く判らないんですけど、まあそんなことはどうでもいいんです。この一連のことで明らかなことは、“人は少しづつ変化するものを認知することが苦手”という脳の癖なんです。

これは大変重要なことなんだと思うんです。ふんぺい得意のらんちゅうに落とし込んで考えてみると、何度も申しあげたように、人はらんちゅうの形質が少しづつ毎年変化して行っても気が付かないということです。いつの間にか、頭が出なくなったとハタと気が付いても、後の祭りというのはそういうことなんです。

このような脳の癖を知っているのと知っていないのとでは、雲泥の差があるのではないでしょうか。早期に気が付けば修正も可能でしょうが、形質が変容してしまったあとではもう遅いのです。

それからもう一つ、人は、画像の一部が違うものを交互に見せられるとすぐその違いに気が付くのですが、パッパッと画像が入れ替わるその間に無地の画像を挟み込むと、その違いを認知することが出来ないんです。

ウィルス感染などを防ぐために、一つの洗面器に魚を集めないようにしたらという議論があり、洗面器ごとに魚を入れて審査する方法が発案されていますが、この方法には無理があると私は思っています。一洗面器ごとに目を移すという審査方法は、魚の優劣を脳科学的手法として考えると、上記の現象から鑑みて非合理的に思われるんです。結果として比較は難しく見落としが沢山出るのではないでしょうか。

今では錦鯉の品評会は個体ごとの水槽で審査が行われているそうですが、無地画像挟み込みと同じ現象が生じ、適正な品評を難しくしているのではないかと想像しています。魚を集めての土俵タライでの審査が、あながち時代遅れでもないことがこれで判るのではないでしょうか。

脳の癖を知っていれば本当に適正な魚の審査、鑑賞方法が見いだせるのではないかと思います。

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2011年12月 1日 (木)

『蘭鋳花傳』を読み解く~5~“『匁』再考”

本書を読んでいると、以下の文に遭遇しました。

小竹 どうしても大きいのがわりがいいでしょう。だいたい目方をかけるわけでは いかないけれども、昔は十六、七匁で、今はややもすると二十匁どころか三十匁近くのものがありますよ。  P44

小竹氏の発言ですが、ん?? 宇野先生の言と違うではありませんか。もう少し整理して考えてみましょう。

16匁とは、60グラム

20匁とは、75グラム

30匁とは、112.5グラム

となります。

80匁(300グラム)の親魚が居たと仰っていましたが、どうも大きすぎるような気がしていたんですが、実証実験の時に実は比較の為に他の個体も計測しておいたんです。それを見ますと・・・・

4

上記の個体は100グラム=約27匁となりました。

5

体長で言うと15センチ前後。

スタンダードサイズの親魚の大きさは、体重から推測すると大きくて30匁(112.5グラム)で20センチ弱となると考えられます。

16匁(60グラム)となるとかなり小さくなります。

もう一つ例を出しておきます。

6

この個体は40グラム=約10匁で、

7

体長は、10センチぐらいです。

以上何となくイメージが湧いてきたでしょうか。

整理すると

10匁(40グラム)→10センチ

27~30匁(100グラム)→15~20センチ

40匁(150グラム)→20強センチ

80匁(300グラム)→25センチ?

イメージ出来ましたか?

要するに纏めますと、宇野先生が仰っている大きさは例外的なことで、年齢によってはそれぐらい大きいものも居たと捉えるべきでしょう。

スタンダードの大きさは、やはり15センチ前後が親のサイズだったのではないでしょうか。今の宇野系の親のサイズが、当時の大きさに準拠していたのでは?と推測されます。

自然に準じた飼育方法で行くと、以上の考え方が妥当であるのは、宇野系らんちゅう愛好家なら、容易に想像することができることです。伝統的な大きさと飼育方法を踏襲すると、大きさは今とさほど変わらないと結論付けられるように思います。

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