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2011年3月

2011年3月28日 (月)

まだ寒いですけど・・・

そろそろ始動。今年はなんだか寒い日が続きます。

Dsc_2080

Dsc_2082

明け三歳もあんまり痩せずに冬越しできたみたいです。上の個体は色が綺麗なんでしばしば登場していただいています。(^_^;)見栄えしますよね~

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2011年3月22日 (火)

春はそこまで

東北はまだまだ寒い日が続いていることと思います。

復興への足取りも聞こえてきません。物資の補給や被災された方々の苦悩は続いています。

もうちょっとです、もうちょっとで暖かい春が・・・・

ネットのニュースを見ているとこんな記事が。
http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20110320-00000588-san-soci

Dsc_2070 春を呼ぶ水仙

“過剰自粛”、今回の地震で西日本は無傷です。東北の惨状を見て平静でいられる人はいません。だからと言ってなんでもかんでも“自粛すること”が果たして良いのか。経済が委縮すれば今まで以上にデフレは進行して日本が沈むことになる。

西日本の人達がしなければならないことは、実は普段通りの生活と東日本を支えるための経済活動ではないのか?

そんなことがネットのニュースに書かれているわけです。同感です。

Dsc_2072 ふきのとう

風評被害同様に、必要以上の自粛が経済的な困窮を生み出すことを忘れてはいけないと思います。経済は生き物です。経済学を勉強してきた人間としてそれは声を大にして言っていかなければならないと思います。

東日本の人達への手厚い支援と、それを支える西日本の今以上の経済活動。これが日本を立ち直らせる根本ではないかと思います。

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2011年3月16日 (水)

東北関東大震災~お見舞い~

津波警報が出ても誰もが高をくくっていたかもしれません。

スマトラ沖地震災害も遠い世界でのこととして油断していたのかもしれません。

大阪で不気味な長い横揺れが続く中、これは只事ではないと思っても次の行動に移ることができない自分に気が付き、そしてどんどんリアルタイムでモニターに映し出される津波の映像はまるで現実感がなく、本当に起こっていることとは到底思えない光景でした。

さらに福島原発の事故。刻一刻と変わる状況。首都圏の停電はどれだけ東京電力がタイトロープを渡るような電力事情であったのかを露呈した形ですが、やはり政府の対策は後手後手。阪神大震災の時の社会党政権を彷彿とさせるよう。

石巻の知人は未だに音信不通で消息不明。

あまり大きな感情表現をしない控え目な東北人にして、離れ離れになった家族とやっとの思いで会えた人達がみんながみんな嗚咽しながらしっかり抱き合う姿を見せつけられると、どれだけ過酷だったのかが伝わってきて涙なくしては見れません。

こんなことが起ころうとは・・・・

我々ですら日本はどうなってしまうんだろうと思うのに、被災された方々の気持ちは本当に計り知れない喪失感と絶望感で一杯なんだろうと思います。

この国難に立ち向かっていかなければならない時に、信頼に足るリーダーが居ないことに不幸を感じますが、それでも日本人として前を向いて生きていかなければならないことを覚悟しなければならないのでしょう。

最後に多くの亡くなられた方のご冥福を祈るとともに、被災された皆様に心からのお見舞いを申し上げます。

がんばれ東北!がんばれ日本!

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2011年3月10日 (木)

読書ノート~『芸術闘争論』~

村上隆氏の『芸術闘争論』を読了しました。
Img6 幻冬舎 2010年

アニメというか漫画をモチーフにしたり、キャラクターなどを使用してルイ・ヴィトンとコラボしたり私たちが想像していなかった活動をしている現代美術の異端児と言われる芸術家です。

キャラクターやフィギュアが芸術として評価されているのか不思議だったのですが、この書籍を読んで納得しました。村上氏のスタンスに私も激しく同意します。

触発されることが沢山記されています。村上氏の方法論や考え方は、“らんちゅうを芸術にまで高めるにはどうしたらよいか”の方法論にもそのまま使用できるように思いました。

少なくともこの社会では金がすべてじゃないという作品を作るためにもお金がかかるし、勝負がすべてではないということさえ勝って言わなければ説得力がない(P38)

村上氏の現実主義はここにも貫徹していますね。らんちゅうにおいてもそれなりの実績を残さないと説得力がないのと一緒ですね。(^_^;)

戦後の日本人は、首輪をつけられないで育てられてしまった犬のようなもの(P67)

耳の痛い指摘です。戦後教育の“自由=正義”の名のもとにおける放任主義が、根拠のない自信過剰な輩を生み出したことと一致しますね。見事に言語化されています。

人間があるフォーマットの中でプレイする時に出てくる表現域が期待値を超えた時、それは芸術的表現である(P69)

芸術とは、という問いに対しての一つの答えですよね。想像を超えた所に存在するのが芸術ということでしょう。らんちゅうも芸術的表現とは何かを考える必要があるということですね。

圧力というのはやはり「人生がかかっている」か、粘着質にそれについて考えつづけて研究し、歴史を検証し、現代を検証し、批判する人間、肯定する人間の意見をきちんと自分で検証し、その上である種の発表された論文なり研究が客観性を持ってなるほどとわかるところまでやればこれは芸術になれるかもしれない(P120)

しつこく考え続けること、そして歴史と現代を検証し続けること、これが芸術へのステップかもしれない。『らんちゅうは芸術だ』とのたまう方がいらっしゃいますが、根拠が希薄で何も説明できていないんですよね。誰か批評し噛み砕いて説明する『翻訳者』がいなければいけないんだと思います。

小説ではありませんが、物語、お話というのはなぜ必要なのか。人間がどうしても芸術にたどりつかなくてはいけないのはなぜか。
犬ですら遊びを欲するのに、人間は高度な遊びとして精神的なバランスをとる知的なゲームをせずにいられないから。
そのゲームの中に、ある種の哀しさ、真実があるとすれば、自分が生まれてきていずれ死ぬ、自分が生まれてきたことが無意味であるということに気が付く瞬間に、それでも無意味ではないのかもしれないと自分を納得させるためにお話をつくらないと生きていけない。

村上氏は、さすがに気が付いていらっしゃるんですね。芸術の存在理由がここに書かれています。まさに「生きることは死ぬまでの暇つぶし」なんて斜に構えるのではなく、生きることの意味を問う哲学であって達観ですよね。意味を探す旅こそが、救済であり芸術なんですね。

作家になっていくには、師―徒弟制度とか、スクール(流派、学派)―例えばバウハウスとか、こういうところで密着して作家にぴったりついて教育を受けるしか可能性はない。(P238)

作家をそのままらんちゅう愛好家に置き換えてみてください。徒弟制度についても以前書きましたよね。愛好家は一人一人が作家なんです。芸術にらんちゅうが昇華するための方法論はここにも書かれています。

1.文脈の説明

2.理解者の想像

3.ネットワーク  (P260)

芸術にならんが為の方法論を、村上氏は惜しげもなく公開しています。その中で三つの要点を挙げて論じているのですが、“文脈の説明”とは別の言葉“コンテクスト”や“レイヤー”と言い換えています。つまり、らんちゅうならどれだけの圧力で意味性を如何に付与するかと、誰が翻訳して人口に膾炙するかなんですね。それが出来て初めて、宇野系らんちゅうに芸術性が付与されるのではないかと思うんです。

そしてその作業は、同時に“理解者を想像”するんだと思います。それが書籍なのかインターネットなどのメディアなのかは、最も有効なツールを選択しながら作業をしていかなければならないのでしょう。

そして、人と人のネットワークの構築は、次第にグローバルな広がりも持ってくるんでしょう。こうやって見てくると村上氏の言は実践としてとても有効だということが判ってきます。

シーンを作らねばならない。そのためには自分の今まで体験で学んだことのすべてを教えよう。自分が掴んだ何かを隠すことのよって、自らが少々生きながらえても仕方がない。大事なのはこの自立性のない、なにかに頼り切った日本の状況を根こそぎ変えることだ。(P290)

村上氏の潔さと透徹した芸術観が、この文章から読み取れますよね。隠すことによって生きながらえることを由としない、私もそのスタンスに立ちたいです。

村上氏の言はそのまま実社会でも通用すると感じるのは私だけではないでしょう。

らんちゅうが芸術に昇華するための方法、ここにそのエッセンスが惜しげもなく披露されていると感じました。

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2011年3月 8日 (火)

鶯の鳴く頃

先日からこちらの地方も鶯が鳴き始めています。

気が付くと梅も見ごろを迎えているんですね。

梅に鶯、良く言ったものです。

鶯が鳴き始めるとそろそろシーズンインだと思うんですよね。

季節は確実に巡っているんですよね。

さあ、ふんぺいも起きだすことにします。ゆっくりとゆっくりと・・・・・

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