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2011年1月

2011年1月31日 (月)

図解『らんちゅうを分析する』~その1~

暇なんで、図を書いてみました。

Img2_7
※クリックすると大きく表示できます。
拙い絵ですみません。一般的に評価の高いタイプのらんちゅうをイメージして書いてみましたが、ポイントを追って説明します。なお尾は左が跳ねたようになってますが、これはご愛敬。(^_^;) 
お断りしときますが、決して特定の個体を指しているわけではありません。あくまでそれぞれの部分の分析をしてみたのであって、一般的ならんちゅうの観方とはかけ離れていることを、ご承知置きください。その理由は、普通の読解力のある方なら、理解できるように書いているつもりです。 

1.腹巾と目巾と背巾の関係

腹巾は、上から見て最も横に張り出して見える部分の巾を言います。この部分はエサの加減で膨らんだり萎んだりします。本来の魚が持っている太さではないので、一番飼育者の技術の見せどころでもあるので、入門者は惑わされやすい部分です。

本来の魚の巾は、“目巾に準ずる”と言われています。頭骨の巾以上に体躯に巾があったら、それはエサで作っていると判断出来ます。

と同時に、目巾と背巾はイコールとここでは考えておきます。実はイコールではないのですが、長くなるのでまずはそう思っておいてください。

2.エラの後退

“エラ下が長い”や“エラが長い”などと言ってプラス評価の対象となっていますが、これは逆です。マイナス評価なんです。頭部より後ろにエラが後退して、より和金やフナに近い形状になっているということなんです。フナと比較すると良く判る部分です。背出しがΛ字に頭部にめり込んだ形状になっていますが、エラが後退してフナに戻るバイアスが掛かっている個体と認識してください。

3.頭部の縮小

この個体の場合、頭部はエラの前端部から前になります。背の始まりと連動しているわけですが、そうやって見て行くと、頭部の面積が小さくなっていることが判るかと思います。頭部が縮小していくと、フナに近いことになります。ですから頭骨は、かなり小さいということです。

4.背の始まり部分

ポイントごとに見ていますが、全て連動していることが理解できるのではないでしょうか。トキン部分(形跡だけある)の後端部から背が始まるわけですが、背の始まりが前方に食い込んでいるわけですから、これだけでも背が高く出ている証拠です。横にして見なくても判ることになります。

5.あくまで目巾を見る。フンタンの形に惑わされない

フンタンの付き具合で、あたかも頭骨の巾があるように見えるかもしれませんが、実は目巾がその土台になっています。ですからこの個体の装飾(肉)をはぎ取った本来の太さは、目巾以上にはなく、背の巾も左右のエラの前端部の渡りの巾以上にはありません。従って太く見せているのであって、飼育者の技術力であることが見てとれます。

6.トキンがない

目と目の間にトキン状の隆起が見れますが、これはトキンの名残(なごり)であってトキンとは言えません。残念ながら、この個体で仔を引いても、トキンの隆起した個体は現れないでしょう。

実際の個体の画像を提示したら問題も多いので、絵を描いちゃいました。(^_^;)
このタイプの形を“優”と覚えてしまっていたら、以上の説明で改良度合いから言うと、あまりよろしくないことが判っていただけたでしょうか。

こんな感じで図入りで説明すると判りやすいですかね。反響が良かったらまたやります。(^-^)

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寒波ネタ 再び

寒いったらありゃしない!!

日本海側は大変なことになっているようですが、今回の寒波はこちらはまだ雪は積もっていません。しかし、半端じゃない寒さで池の氷が盛り上がってますよ!
Dsc_2002
あんまり寒いから氷が膨張しては凍るを繰り返してか、透明な氷になってません。こんなことは滅多にないですよ~

魚は大丈夫みたいですけどもう勘弁してほしい~

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2011年1月28日 (金)

頭と尾の関係

昔から言われていることがあります。

頭(かしら)が良ければ尾が駄目になり、尾が良ければ頭が駄目になる。

どうやら頭の質と尾は反比例する傾向があるようです。先人は気付いておられたんですね。この二律背反する関係を、如何に両立させるかで皆さん苦労されているんだと思います。もっとも、そのことに気が付いている愛好家は少ないんですけどね。

頭も良くて尾が良い個体などはいつまで経っても出現しないだろうと薄々気づいている人もいるかもしれませんね。シーソーみたいなもので、尾に重きを置けば、一方の頭は悪くなる。その逆もありますよね。

現状追認派の会物優先の考え方が主流なのですから、一般には尾の改良された個体が流布することになります。これは当然の成り行きですね。すなわち、尾に重きを置く人は、頭はある程度出てたら良いと“妥協”してしまうことになります。

または、その法則からいくと、本当に素晴らしい頭の個体は、大体尾が悪いことになるので、品評会には出てこないんですね。ということは、頭を追求した個体は一般に見る機会がない。認知されないってことにならざるをえないんですね。

一般愛好家は、そんな肉瘤の素晴らしい個体は滅多にお目に掛からないから、物差しとなる基準がないので、程度が判らないので現状で満足してしまうわけです。

だから「これぐらい頭が出ていればいいんじゃないの?」ぐらいの気持ちで、中途半端に納得してしまっている方が大半になるんでしょう。

フンタンが出てれば頭が出ていると勘違いする人が増えて、トキンが萎んで遺伝因子が消失していっていることに気が付かない人ばかりになるんですね。

実際のところ、宇野系をされている愛好家なら、意識して肉瘤の遺伝因子を残しつつ、胴と尾の改良をしていくべきだとふんぺいは思うんです。

万が一、肉瘤の出ていない個体で仔を採ったとすると、その仔が親魚になるまで頭は完成しないのですから、遺伝因子が消失してしまったのに気が付いても、もうすでに4年は経ってしまっているんです。後の祭りですよね。このような掛け合わせが、肉瘤を消失させるというリスクがあると思わないブリーダーは居ないはずです。

肉瘤が出ない因子を顕在化させてしまったら、宇野系と一般らんちゅうの違いは無くなってしまい、単に綺麗な更紗魚だけが残ってしまうことになりはしないでしょうか。(宇野系の消滅!!?)

何度も言いますが、宇野系らんちゅうの最後の砦は“類まれな肉瘤”のはずなんですけど、なかなか気が付いていただけないようです。
Dsc_1985
上の画像は再掲ですが、あえて気が付いてもらえるように、頭部にモザイクを掛けてみました。

尾は少し難がありますが①綺麗に左右対称の開き尾です。②胴も低く抑えて幅もありますよね。

さて、ならばこの個体は、この二つ(①と②)の条件で、“らんちゅう”である言えるでしょうか。(ご存知のように、この個体は頂天眼ですが・・・・)(^_^;)

そうです。頭部に肉瘤が無かったら“らんちゅう”であるとは言えないのです。いくら尾を改良して胴を改良しても、所詮、頂天眼や水泡眼と区別が付かないことを、この画像で納得してもらえるのではないでしょうか。

らんちゅうにおいて、他の品種と決定的に違う唯一の特徴とされる“頭部にらんちゅうらしさを出す”ということはどういうことか?単に頭部に肉が付着したら、らんちゅうかというわけではないことは何度も書いてきました。

その答えは、“頭部の肉瘤をこだわりをもって純化する”ということだと思うのです。そして頭部肉瘤の純化の目安は何か?

より奥深い鑑賞基準は、顔としての立体感を演出する“兜巾(トキン)の膨隆度合い”となると思うのです。トキンほど遺伝因子の保存度合いを測る目安はないとふんぺいは考えています。肉瘤の他の部位から明確に分離していて存在感のある個体を最良と考えると良いと思います。

このトキンは餌で膨隆は見込めません。あくまで遺伝因子が保存されていて健康な飼育をしないと発現しないし、いくら土台らしきものがあっても、形質が消失していればそれ以上、良質の餌をくれてもトキンは成長しないんです。

以上は、経験を踏まえて検証してきた結論なんです。

らんちゅうにおいては、尾も胴も頭に従属していると考える理屈はそういうことなんです。

Dsc_1609

“らんちゅう”としてのレゾンデートル(存在価値)は何にあるかをしっかりと認識してはじめて次のステージに進むことが出来ると考えるのは以上が理由なんです。

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2011年1月18日 (火)

四歳まで飼うという意味

『卵から四歳まで飼えるようになって初めて一人前』と言われます。

これは特に宇野系らんちゅうで言われることなんですが、なかなか一筋縄では出来ないことなんです。稚魚を四歳まで事故なく飼うことなんて本当に難しいんです。それも多くの期間、健康に飼育するということの難しさは、経験してみないと判らないことなんですね。ま、卵からというより、毛仔から飼えるようになったら、いっぱしのブリーダーとして認めてもらえ、ベテランの愛好家も対等に扱ってくれるようになります。この壁は結構厚いです。

四歳まで無事飼うなんて、飼育者が常時モチベーションを維持していないと無理です。一日たりとも気を抜くと、病気になったり長い間成長が止まったり、猫に持っていかれたり(^_^;)と、取り返しのつかないことになるんです。

それから、一般のらんちゅうと違うところは、宇野系は当歳や二歳で親の形にはならないんですね。ですから、宇野系の場合は、“黒仔の時期までに骨格を作る”とかのセオリーは当てはまりません。

要するに、どんどん餌を食わせて形を作ることはしません。この時期に無理な給餌をすると魚が崩れてしまうことが多いと言われています。骨格が“硬い”魚はいくら給餌をしても崩れませんが、骨格が“柔かい”魚は崩れると言います。このニュアンスは、宇野系愛好家のうちでも少数派の方しか気が付いていないようです。※会用のみに改良されてきた魚は“硬い”と言われます。

宇野系の骨格の“柔かい”魚は当歳より二歳、二歳より三歳とどんどん変化していきます。当歳で親のような形になっていなくても、健康的な給餌と飼育方法を実践すると親で大成します。骨格もどんどん変化していきます。当歳で幅があるように見えても二歳で普通になったり、頭骨が発達していなくても急激に変化するものが多いです。そうなると先行きなど判らないので捨てるにも捨てられなくなります。

このニュアンスを体感するには、数多く残さないと判らないとふんぺいは思っています。それと我慢して親まで飼ってみること。これは実践している人にしか理解できないと思います。

四歳まで辛抱して我慢してはじめて見えてくるものがあることを、どれだけの愛好家の方が理解しているでしょう。変なバイアスを掛けるより(選別)、伸びてくる魚を見出す面白さを体感して欲しいと思うのです。

このブログで掲載している当歳が、あんな親になることを誰が想像できるでしょう。四歳になるまでの道中は、一喜一憂する楽しさとしても、勘違いしてそこに重きを置くのはどうかと思います。要するに、当歳から親になるまでの道筋で魚が見せる表情は、単に一過性であり通過点として位置づければよいことです。

あと、結論を急がないこと  が秘訣でしょうかね。

だから親を作っている愛好家が一番凄いのだと思うし、ふんぺいもそうなろうと努力しているんです。

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2011年1月17日 (月)

また雪

とにかく朝起きるのに苦労します。

庭は、
Dsc_1999
またまたこんな感じで積もっています。この前より積雪は少ないのですが、とにかく寒い!

左に見える叩き池だけ青いペンキ地が見えてますけど、この寒さからかクラック(ひび割れ)で水漏れが酷くなって魚を移動しました。

Dsc_2000
水を張ってもすぐに水深が浅くなるんです。この前までこんなじゃなかったんですよ。寒さでモルタルも収縮するんでしょうね。かれこれ10数年使用してますもんね。

またまたインフラ整備をします。皆さんもシーズンまでに色々な不具合を解消しておいてくださいね!

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2011年1月16日 (日)

体色のお話

らんちゅうの色のお話です。

有名愛好家の方からお聞きしたお話。

◎昔は朱鷺(とき)色の魚が居た

ん~どんな感じなんでしょう。(^_^;) 

こう推理してみました。

鱗が透明鱗で、地肌に赤が乗っている。擦りガラスの上から見るような感じで淡い朱に見える・・・・もしかしたら桜錦みたいな。。。 裏模様ともちょっと違うような。

◎常滑焼の急須に代表される「朱泥色」のような体色のらんちゅうが居た

猩猩よりも赤黒い色なんでしょうね。どんな色なんでしょう。こっちは朱鷺色よりもっと想像できません。赤に黒色素がまばらに乗っていたんでしょうか。

どちらもこのようならんちゅうは今では見られないようです。
いずれにしても体色は本当にキリがないんです。体色のラビリンスは愛好家を惑わす魅力がありますよね。深入りすればするほど判らなくなります。

造形物としての形を極めてからでも色はいいんじゃないかと思うんですけど。

宇野先生は、『原始的な形』を一番嫌っていらっしゃったと聞きます。まず土台ありきでしょう。

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2011年1月15日 (土)

盆栽・盆石・錦鯉・らんちゅう~芸術からこぼれ落ちたもの~

独自の文化を育んだ江戸時代が明治維新とともに終わり、西洋文化が押し寄せてきたのはご存じのとおりです。

フェノロサと岡倉天心は、日本美術を再評価した日本文化の恩人であるのですが、その際、西洋の尺度としての“芸術”を導入したものですから、その網の目からこぼれ落ちるものが多数あったと言われています。

西洋美術に存在する絵画や陶芸や彫刻は、再評価の対象になりました。掛け軸や巻物などは“絵画”の範疇に入り、仏像は“彫刻”等の造形物として対象になりえたのです。

しかし、生物を利用した“移りゆくものを素材にする芸の術”は、西洋には存在せず、当時の彼らには理解不能であったのではないかと言われています。西洋の枠組みを日本文化に当てはめる。そこからこぼれ落ちたものには、かくして地道に“遺したい”という一個人の熱い思い頼みの、過酷な道しか無かったのだと思います。

たとえば、盆栽は、植物を題材に自然を表現するもので、絶えず育成して管理を怠ることができません。それは変化していくものであり、決して留まることなく流転して行く“芸術”です。

盆石は、黒い漆塗りの盆の上に砂と石とで自然を描く芸。砂の模様で描くのですが、盆を動かせば消え失せる儚い術で、形としては雲散霧消することを是とする日本独自の文化です。

錦鯉。これは皆さんご存知のように、日本の山村で突然出現した色の付いた野鯉を美しく改良したもの。生物であるだけに、盆栽よりももっと鑑賞には時間的な制約が絶えず付きまとう、いわば“一回性の芸術”と言えるものではないでしょうか。同じものは二度とその機会を逃すと見ることのできない“絶えまなくゆれ動く美”。
生物を題材として千変万化する自然環境と向き合った美の饗宴とまで言うことができるかもしれません。

そしてらんちゅう。錦鯉と同様に、日本の精神を日本人の類まれな美意識によって、中国から伝来した素材としての金魚を、別の次元で“芸術”と言っても差し支えないほどの高みにまで昇華させた、陶芸にも匹敵すると私的には思う、造形美の世界。にもかかわらず、死んでしまえば跡形もない流浪の美的生物。

以上を纏めてみると、西洋の美が不変的なものへの希求であるのに対して、日本の美とは可変的(形として残らない)なものとしてそれに対峙する感があります。西洋建築の石を素材にしているのと、日本は木を素材にしているように。

さて、その一つのところに留まることのない日本の美の永続性を担保するものは何か?
それはひとえに、人から人への継続性ではないでしょうか。ですから日本文化にとって最も大事なのは伝統であり継承であると言えます。脈々と受け継がれる伝統芸能こそが、日本文化の根幹を表現していると言っても良いでしょう。同時に、論理的飛躍があるように感じられても“天皇”という国家の有り様が全てを物語っていることに気が付かなければ、日本の美術の多くの部分を語ることができないのではないかと思われるのです。※このことは恐らく沢山の言葉が必要でしょうが・・・・

西洋的な美の枠組みに、上記のものを当てはめることが果たして良いのかは、いつも議論になることだと思いますが、こうやって考えてみると、日本人が上記の日本の美をしっかりと認識して、継承・発展を願いながら、人を育成して行くべきと考えられます。西洋の枠組みに組み込まれることを由とした柔道がJUDOになり、日本人の精神性が希薄になってしまったのとは逆に、剣道は違う道を歩むことにしたのと対照的です。要するに、日本の独自性を如何に担保するかということだと思うのです。

日本列島に住み、日本という国土で培われた日本人が作るもの。これが日本の精神文化を永続させる原動力と考えるのです。全てのものがそうなんだと思うのです。産業しかり、文化遺産しかり、日本人にしか作りえないものが存在し、それがどのようなものであるかということを見極める必要があると思うのです。

ところで、私たちは、そのかけがえのない日本人にしか作りえないものを、安心して引き継いでくれる次世代を、現在見出しているでしょうか。趣味といえども蓄積された知識やノウハウを、次世代に重層的に引き渡せる体制が出来ているでしょうか。

過去と現在はあるが、未来はない。本当の意味での歴史教育のなされていない現状は、日本人という意識の希薄な世代ばかりを作り出しているように思えてなりません。いずれ廃れて未来はないように思えることが山ほどあるのですが、そのことをどれだけの人が意識しているのでしょうか。

今までのように趣味を満喫できるとは限らないことを、十分に多くの人が認識出来ていると言えるでしょうか。そのような危機感が無ければ、いずれらんちゅう趣味は過去のものとして葬り去られるような気がしてならないのです。

伝統産業の後継者はどんどん減っています。今までは社会環境が後継者を自動的に作り出してきましたが、今では、偶然にも一握りの志がある若者が出てこない限り、魅力が感じられないで私たちの世代で途絶えてしまう。そんなことが日常茶飯事で起こっているのです。

ましてや趣味なのですから、いつ飽きられてもおかしくないという危機感と、若手の育成と趣味者人口の裾野を広げる努力は、絶えず労を惜しまないようにすべきだと思うのです。

時代にあった魅力のある“らんちゅう趣味”とはどのようなものか?という問いも、オフシーズンにじっくりと考えてみることも必要と考えます。

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2011年1月 6日 (木)

“馬の背”という用語で気が付いたこと

先日、話しをして気が付いたことなんですが、字面が一緒の用語で意味が真逆のことを言っていたということがあったんです。

“馬の背”、この用語は「馬の背のように両側が深い谷となって落ち込んでいる山の尾根伝いの道。馬の背越え。(大辞林)」とイメージしていたのですが、ある方とお話してどうも話しが合わないと思ったら、 「馬の背中のように中央部がややくぼんだ形状の尾根はよく馬の背と呼ばれ(ネットより)」という意味で使用されていたんです。で、その「ややくぼんだ形状」に注目して良い意味でイメージされていたんです。

かたやマイナスのイメージで、かたやプラスのイメージでこの言葉を使用していたんですね。

同様な例で、“ボラ胴”や“ボラ背”もそう。※以前も書きました。
“蛙目”も同様です。“トキン”と“トキン頭”も混同されていますし、“鬢張り(びんばり)”や“おかめ”も本来使用していた意味と違うことが良くあります。

使っている当人は、当たり前と思って使用していますが、議論がかみ合わない時は用語の意味の確認からはじめないと大変な誤解が生じることがままあります。

まず、その流派のみで流通する独特な用語に気づき、再検証して自問する必要があると思います。でも多分、内と外の関係で、その内部の構成員には見えないことが多いですよね。ですから自分がスタンダードだという思い込みではなく、外部と比較する眼を持って気付かなければならないのだと思います。

考えてもみてください。“龍頭”って用語なんかも私たちは「たつがしら」なんて読んでいますが、普通「りゅうず」って読んで、時計のねじ巻き用のツマミを指す「リューズ」のほうが一般的だったりします。少し例えが適当じゃないかな?(^_^;)

このように読み方ひとつとっても違うんです。流派内部では当たり前のようにイメージ出来る言葉でも、外部の人間には理解できないということが生じていると自覚しないといけないんですよね。初心者の時、肉瘤の名称一つとっても混乱していて訳が判らなかったのを覚えています。それと同じことだと思います。

今一度、ひとつずつ用語使用に際して愛好家同士で共通認識を構築していく努力を怠らないようにしないといけないのでしょうし、全員でそのような問題意識を持つべきだと思うのです。

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2011年1月 3日 (月)

2011年謹賀新年

あけましておめでとうございます。

旧年中は何かとお騒がせしました。

本年も面白い企画を色々と考えています。『金魚三昧』誌も今秋発刊される予定ですので、“宇野仁松研究”を寄稿します。足で集めた資料とともに、ある意味、偶像化されてしまった宇野仁松像を、客観的な事実を明示することによって、“真の宇野系らんちゅうとは”ということを愛好家の皆さんに問いたいと思います。

無論このブログは、入門者の方たちにも判り易くらんちゅうを考えてもらえるように、ふんぺいの日々考えていることをご紹介していく形にしたいと思っています。

宇野系らんちゅうを考えながら、狭い枠組みには囚われず“らんちゅう”を極められれば本望ですが、さてさてどこまで肉薄できることでしょう。そのために皆さんのお知恵も是非拝借したいと思います。

なにはともあれ、権威主義や思い込みを排除して、理論と実践を重視しつつ、できるだけ画像とともに見てもらって納得してもらえればと考えています。

今年も一年一緒にらんちゅうを楽しもうじゃありませんか!どうぞお付き合いくださいませ!

Dsc_1985
花房頂天眼

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