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2010年4月

2010年4月21日 (水)

峰って何??~胴を考える~

よく背の良否を判定する時、『峰がある』とか『二階建ち』になっているとか言うのですが、みなさんお判りですか?
これはらんちゅうにとって、とっても大事なことなんですが、結構いい加減に見過ごされている部分でもあります。

らんちゅうは、フナから最も離れた鑑賞魚である。

という大前提において、背中に肉が盛っていたり、稜線(峰)が入っていたりすると“改良の余地あり”とされるんですね。

Photo
この個体は、十分背が低くて鱗並びも綺麗です。“峰”が無いです。一般に太陽光下で、らんちゅうの背を撮影すると、背骨にあたる部分に、頭の付け根部分から尾筒にかけて一本線が入ったような反射が見られるんです。反射が見られるということはその部分が凸になっているんです。

この個体は、背の真ん中にわずかに光の反射で薄く光って見えますが、乱反射が無い分、背が低いと判断出来ます。これほど綺麗に背を抑えたらんちゅうは少ないと思います。光沢の無い薄い色のらんちゅうの場合は、この峰の部分が隠れる場合があるので注意が必要です。

峰の無いらんちゅうを出来るだけ残して繋いでいくことが改良のポイントになっていることを、あまりベテランの方も見過ごされているのではないでしょうか。

餌で太らして誤魔化しても、次代では馬脚を現すことになります。整形美人は子に遺伝しません!から(^_^;)

但し!!難しいこと言いますが、峰が無いだけでは良いらんちゅうじゃないことは、このブログを御覧になっている方は、理解されていますよね。他の部分とどれだけ高いレベルでクォリティーを維持するかが、らんちゅうの真髄であるということを。

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2010年4月15日 (木)

らんちゅうを相対化する

『らんちゅうとは?』という問いを絶えず考えているんですが、皆さんはいかがでしょう?

ネットなんかをつらつらと見れば、あーでもないこーでもないって、らんちゅうのことが色々書かれていますよね。入門者の方は恐らく混乱の極みなんでしょうね。その混乱に拍車を掛けているのがこのブログだったりして・・・・・(^_^;)

宇野系を標榜しながら、宇野系には程遠い代物を、わずかな経験から自分の思い込みだけで、しかも大して調べもせず吹聴することがどれだけ害毒になるかを考えてほしいと思います。自分の個人的見解を言うのは別に良いのですが、根拠がないことをただ垂れ流すことが果たして良いことなのかを、今みんなで考える時期に来ているように感じています。

よ~く考えてみてください。これだけ違うことが書かれているのなら、どれかを信じないといけないってなっちゃうんだと思うんですよね。そうなんです、この時点でらんちゅう飼育というものに誰も想像だにしない宗教化の芽が潜んでいるんです。

「知の断片化」
ネット利用者が、全体の文脈を読まずに、知の体系を持たずに、検索で出てきた短い情報に頼ること。(朝日新聞 2010年1月10日付け 文化欄)

まさにそういう現象が起こっているんだと思うんです。「知の断片化」という現象が利用者をより強力な知の全体主義に導いているんだと思うんですね。それが宗教化の道だったりして絶対信者を生み出しているようにも思えるんですね。

つまり、知の物差しがあまりにも貧弱であるがゆえに、知識のつぎはぎだけで知ったような気分を醸成して、トータルとしての経験的知が伴わない。ただ知っているというだけの、“たちの悪いモンスター”を拡大再生産しているナンセンス。

じゃ、賢明な愛好家及び入門者はどうすればよいか?

全ての情報を並列に置いて、根拠の指し示されないものはふるいに掛け落とし、残った情報に信頼が置けるかを吟味する。これしかないのだと思うのです。それを『相対化』と言うのですが、らんちゅう情報もその『相対化』という方法を導入すべきなんでしょう。

同様に、何が何でも宇野先生が言ったこととして鵜呑みにするという態度は良くないでしょう。宇野先生も、時代に生きた人なんですから、当時の時代状況をしっかり把握してからでないと飛んだ誤解をしてしまう可能性があるんですよね。

60年代、70年代ってどんな世相でした?ファッション一つとっても今とは違いますよね。そのような時代背景をも頭に入れないといけないんだということです。

時代のムーブメントをしっかりと把握しつつ、らんちゅうを相対化するというスタンス。そうすると今まで見えなかったものが見えてくるとふんぺいは考えるんです。

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2010年4月12日 (月)

更紗のラビリンス

私たちは、文化的刷り込みにおいて、紅白のパターンを美しいと感じやすくなっていると考えられます。

文化的刷り込みとは、日本人は特に“日の丸”などの赤と白の色パターンには特別な感情を持っています。それゆえに外国人以上に紅白パターンには思い入れに近い文化的な刷り込みがあると考えられます。

一方、生理学的に紅白の色パターンを、我々はどのように感じているのでしょう。赤と白のコントラスト=色対比は、黒と白や青と白や黄と白などの組み合わせと比較して、明らかに眼への刺激は強いと言えます。つまり脳は、より刺激の強い紅白パターンが基本的に好きなんだということです。人による個体差は少ないと考えられます。

だからと言って万人が、その紅白パターン(更紗)が好きかということとは、問題は別になります。

一方、認知心理学の赤ちゃんを使った実証実験では、まず物の形より色に反応することが判っており、色刺激は本能的とも言えると思います。

生来“更紗は人の眼に心地よい”から、単純に考えると、色模様を鑑賞の第一義と考えやすいとなります。

仁松翁が、「子供や素人さんに評価を聞いてごらんなさい。可愛らしさや美しさというものはそんなものですよ。」

この言葉を、ふんぺいは文字通り受け取ってはいけないのだと思います。仁松翁の魚に対する境地は、玄人としての評価を突き抜けてしまったのだと思うのです。つまり、絵画などの芸術の世界と同様に、血のにじむようなデッサンなどの基本の上に成立する絵画を、ピカソがまるで子供の絵の如くに見える抽象的な表現に最終行きついたそれにも似たものを感じるのです。

赤と白の流麗な模様を鑑賞することは大きな楽しみであるのは確かです。
大阪らんちゅうがその最古の例として“模様魚”と呼ばれていたわけですが、次第にその模様に厳格な優劣をつけて、その競争がいやがうえでもエスカレートしていったんですね。

要は競争となると、希少性を追求することになるのですから、模様にのみ注意が向くようになり土台となる形の優劣は疎かになっていったようです。

考え方として、例えば、その大阪らんちゅうで面かぶりや本国錦が出たとします。形は少し筒伸びで、決定的に仔を引くには問題があるとしても、模様の希少性で形は大目に見てしまうということが起こってしまうとなれば、次第に模様のみの、本来の大阪らんちゅうからは離れて行ってしまうという現象が必ず起こり、カテゴリーからどんどん違う代物になってしまうのだと思うのです。それを仁松翁は「原始的な」と表現されていました。

要するに、理想とする形があってこその色模様でなければならないということです。

色は鑑賞魚である限りにおいて、美しく見えるのに越したことはないのですが、形の追求がなくてはナンセンスだということがこれで判るかと思います。

更紗を論じるとまだまだ長くなります。それだけ複雑であり難解なんだと思うのです。

ふんぺいはそれゆえに更紗を言及する愛好家は、

『“更紗の迷宮(ラビリンス)”の探究者は、大いなる回り道を余儀なくされる』と言わざるをえないと考えるのです。

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