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2010年3月

2010年3月31日 (水)

常識を疑え・「更紗の美学」~覚え書き~

常識だと思って何も疑問に思わなかったことが、実は常識ではないということが世間では良くあります。

美しさの基準というのは、万国共通かと思ったら、そうではないということがままあるんですよね。環境や文化のバイアスがかかることによって、美の基準が変わることが多い、逆に突き詰めると、そのなかから普遍的な美もまた出現することもあるんですが・・・・・。

そこで、私たち「日本人」の大半が美しいと感じる更紗=紅白の色パターンについて考察してみたいと思います。

「更紗」と「紅白」がなぜ金魚界ではイコールなのか?そんなこと、あまり考える人はいないと思います。それだけで書きだすと一つの論文が出来ちゃうんですよ。一般に「更紗」は服飾などの生地(服地)の織りなどのパターンを言うのですが、それがなぜ「更紗」=「紅白」と定着したのかは、これまた謎なんです。

そもそも、紅白のパターンの起源は何かということは良く判っていません。一般に、紅白饅頭や紅白の垂れ幕やら祝い事と密接な関係があるようですが、それも諸説があり、なぜ紅白が“目出度い”とされたのかは解明されていません。

日本人が好む「紅白」の起源は、例えば、赤飯などの古代米の赤米から。また、紅白歌合戦は、源平合戦の幟の紅白から、とか色々ありますが、詰まるところ正確な起源には遡ることができません。

中国では、祝い事においては赤一色が主流だそうです。日本のように紅白を使用することはないんですね。紅白パターンを好むのは日本人独特の文化的嗜好と考えたほうが良いようなんですね。

となると、私たちが普通に使用している「更紗」を根底から考察することの意義は何か?というと、歴史を辿ることによって、現在をより深く知ることになるし、未来への方向性が見えてくるということなんだと思います。

根なし草なら、水面を浮遊して流行に左右されて翻弄される。つまり主体性がまるでないじゃないですか。誰かに踊らされている感は絶えずつきまとうってことなんですよね。

ブレずに趣味を楽しむこと。要するに、ころころ変わる基準に翻弄されるんじゃなくて、法則的なことを見出すことによって、より確実に、好き嫌いだけで思考停止していたことを、もっと根源的な部分を意識することによって、主体的で自覚的な趣味として再構築するということなんだと思うんです。

どんどん脱線してしまったようです。(^_^;)

「更紗」については次回に書くことにします。

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2010年3月25日 (木)

熱意あるもの来たれ

世は草食系~って言うのが流行っているみたいです。

肉食のようにガツガツ(いい意味で)していないってことなんでしょうが、ふんぺいはどうも物足りないんです。

何が?って趣味の世界も肉食系の人が減ったのでは?と思うんですよね。

教えを請うために上洛を繰り返した東京のU氏、日参したF氏やY氏などなど。貪欲な知識欲はその後の活躍が物語っています。

はたや現代はどうなんでしょう??趣味と名のつくものは昔に比べてはるかに増えたんでしょうね。それだけにあれもこれもと趣味の幅は広がり続けているのでしょう。どうしても散漫になって一つの趣味に対しての思い入れが薄くなる。また、簡単に軽い気持ちで趣味として開始出来る環境が整っているものだから、入口で苦労しない分、簡単に止めてしまうことも出来るということなんでしょうね。

だから意欲にも表れているのかもしれません。希薄化した現代!!

どうか皆さんも一つの趣味を長くやるようにしてみてください。長くやれば見えてくるものがあるはずです。

仲間を是非作ってください。それには愛好会などに入会するなどして仲間を探してみてはいかがでしょう。

長くやっているとモチベーションが落ちてしまって、ややもするとその趣味を止めてしまうことだってあるんです。そういう人を何人も見てきました。止むをえない事情ならともかく、「何となく」止めちゃったなんてもったいない話ですよね。同じ志を持った仲間と趣味を続ける。これが秘訣のような気がします。

仲間が出来るとオフシーズンの冬も飽きることないですよ。肉食でやりましょうや。肉食の方、どうぞ遠慮なく遊びに来て下さい。

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2010年3月17日 (水)

味魚(あじうお)を考える

初心者を悩ます表現の中に“味魚”があります。

「この魚は味がある。」「このらんちゅうは味魚の部類に入る。」なんて使い方をするんですが、「味なんて食べて見んと判らんがな!」と、味覚で表現するその手法に初心者は反発はしますが、同意はしないことでしょう。

なぜゆえにそんな抽象的な表現で魚をたとえなければならないか?

鑑賞魚は、美しさというものを尺度とする場合、極めて数値化が難しいものなのだと思うんです。

らんちゅうは、絶対評価は簡単だが、相対評価が相応しい。

ここでいう絶対評価とは、パーツごとを客観的と目される評価点にて採点し、その総合点で表わされるとする考え方。つまり、評価方法が同一であれば場所や時間の制約はなく、たとえ1尾であっても評価は不変とする考え方が底流にあります。

相対評価とは、2尾以上の対象を比較することによって、揺れ動く美の本質を見抜く方法で、「卓越する大事なもの」を主に評価することによって、プラスとマイナスという加減法を、超越しようと企む難易度の高い評価法と言えると思います。(宇野系はどちらかというとこちらを審査法として採用していることが多いです。)

絶対評価は、評価する人数を増やせば増やすほど平均化して突出した評価が無くなりフラットになる傾向があります。勘違いしやすいのですが、フラットになればなるほど公平性が増すように思いますが、鑑賞魚としては面白みに欠ける傾向となります。

相対評価は、ある意味評価者の“個性”をも評価に含むものとなりますので、かなりのバラ付きが生じる可能性があり、絶えず評価者の内心としての“好き嫌い”という眼に見えぬ尺度と格闘することになります。つまりデメリットでもあるわけです。

先日のバンクーバーオリンピックにおいて、浅田真央は絶対評価に敗北したと言えるのではないでしょうか。キム・ヨナは終始減点を回避する完璧なまでの演技に終始し、見事金メダルを獲得しました。浅田真央においては、史上初のトリプルアクセル三連発の偉業は、難易度を評価の対象外としている以上加点とはならなかったのです。

らんちゅうに置き換えれば、ある部分(例えば頭)が突出して質が高いとしても、他の部分が並であれば全体的評価は並にしかならないとか。総合的な美と孤高の美を如何に評価するか。これは軸足をどこに置くかで絶えず変動するものなのでしょう。

浅田の史上初を正当に評価することと、絶対評価は相容れないと考えた方がよいのでしょうね。(確かに浅田には細かいミスがありましたものね)

少し違う方向に筆が進みましたが、味魚に話しを戻すと、要は

見飽きない魚であるということ。

見飽きないとは?どういうことか?

①見るべきところ(鑑賞)ポイントが多いこと

②見るべきポイントが異常に質が高いこと

③見るべきポイントが点数などの客観的評価外の味わいがあること

味わいとは、鑑賞者の側に経験によって蓄積された数多くの比較対照出来る何か(サムシング)があり、対象物にその表出があること。

言葉では表現しにくい部分なので初心者の方には判りにくいのですが、数多くの対象物を見ることによって(目が肥える)、記憶されるポイントが臨界点に達した時、“味わい”という抽象的な表現しか出来ない『味魚』の鑑賞が成立するのではないかと思うのです。

以上のように、やっぱり書きだすと言葉に還元することが難しいようですね。(^_^;)

但し、初心者の方が判らないなりにも『味』というものを絶えず意識することは必要なんじゃないかと思うんです。手探りで趣味を継続していると、ある時判るんだと思うんですよね。これは経験してみないと理解出来ないのではないでしょうか。

文章にすると難しいですね。『味魚』を文章表現するとふんぺいにはこれが限界かな?良い言葉が見つかったらまた挑戦してみます。

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2010年3月12日 (金)

『日本流』を読んで~読書ノート~

『日本流』  松岡正剛 ちくま学芸文庫

この著者、結構手ごわいです。でもふんぺいがことあるごとに引っかかっていたことを文章化されている一人だったんだということが読了して判りました。良書に巡り会いました。

巻末に田中優子氏が解説を書かれているのですが、その文章にグっと来たので書きだしておきます。

「歌舞伎だからいい、俳句だからいい、というものではない。不断の努力をしている人たちがいいのだ。(松岡氏言)」とは至言である。日本にそういうものが残ってきたのは、人が残し、それに惚れ込んだ人が、また受け継いで残したからに他ならない。そこには、高い質を保とうとする人々、さらなる高みをめざそうとする人々、あるいは極みまで行って遊ぼうとする人々がいる。私は地方で、江戸時代にとっくに滅びていると思った芸能や音曲に出会うことがある。たどってゆくと、必ずそこに人がいる。惚れ込み、受け渡す人が一人ずついれば、その分野は滅びない。日本には存外、そういう人たちがいて、それこそが「日本流」の生き方なのである。(※下線 ふんぺい)

私も「日本流」を理解する一人でありたいと思います。

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鶯が鳴くころ

少し間が空いてしまいました。(^_^;)

書きかけが4本ぐらいあるのですが、どうも気分が乗らないのでそのまま放置しています。

一昨日、近所を歩いていると鶯の声がしました。

「ああ、春だなあ。いよいよだなぁ。」とワクワクすと気持ちが高ぶるのがわかります。

毎年、今年はあんなことがしたい、こんなことがしたいと思うのですが、半分も実現しないことのほうが多いですね。そんなもので良いのだと思います。

さて今年はどんな苦しみが待っているか、楽しみです。Mですね~。

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