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2010年1月

2010年1月28日 (木)

大正時代のらんちゅうの絵

変わった角度かららんちゅうを見ます。

下に紹介する絵は大正時代の絵です。実物は彩色されていますが、日本画でこれほど見事にらんちゅうを表現しているのは見たことがありません。尾ひれの繊細な表現。尾筒から尾付けへの立体感。そして体躯の鱗を墨の濃淡で表わし、頭の凹凸感はまさにらんちゅうの肉瘤ですね。愛らしい目には生き物の息吹を感じます。

これほど写実的に表現出来るのは並大抵ではないとふんぺいは思います。

今のらんちゅうと比較してはいけませんよ。なんせ大正時代なんですから。目幅がないなんて言ってはダメです。そんなところを見るんじゃないんです。このらんちゅうは、らんちゅうを愛している人でなければ描けない代物だと思うんですよね。

先人が理想形を、「小判に尾ひれ」と言ったのが、これを見るとなんだか判るような気もしますね。

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2010年1月27日 (水)

せっせと登ってます~

クルマで15分の位置に登山口、、というか山の登り口があるんです。滋賀県と京都市との境の山で手軽に登れるんで健康増進の為に結構賑わっているんですね。

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下が山科盆地で山向こう側が京都市内です。@音羽山

ほんでもって振りかえると・・・・
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琵琶湖が見えるんです。因みにふんぺいの自宅は真ん中より右手に見えております。

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こんな風景はどうです?鉄道ファンならご存知!山科の大築堤はこんなふうに見えるんです。
往復二時間のトレーニングでした。

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2010年1月26日 (火)

ゲテモノと本物

先日からの調べ物の中で、京都新聞に面白いコラムがあったのでご紹介。

随分と古い記事なんです。昭和45年6月30日夕刊なんですが、たまたま目について読んだら「なるほど」と思っちゃったものですから・・・・・(苦笑)

『古美術 うらおもて』と題して
ひところ美術界に面白い現象があって、やたらと美術品の肌(はだ=マチエールまたはテクスチャー)の面白さを珍しがる流行があった。そのころの話であるが、古美術の世界にも、この趣味がはやった。一例をあげれば、仏像などでも完全な姿の物より、むしろ鼻や耳が虫に食われて、まるで○×患者の顔(※現代ではふさわしくない表現)みたいな木彫や、また腕や指は虫食いで孔(あな)だらけのものがよく売れた時期がある。

(中略)

物の美しさというものは、形(フォルム)線(リズム感)色(ハーモニー)肌(マチエール)などの諸要素が集まって、私たちの目に美しく感じさせてくれるものである。それが美術品となると、その上に作者の人柄や精神性が加味され、全体としての「深さ」「豊かさ」「偉大さ」等の人間だけが愛すことの出来る「もの」になってくる。

流行や薄っぺらな鑑賞眼にかかると、形だけの面白さや、色だけの綺麗さ、また肌(マチエール)だけの味などにこだわった偏見が出てくる。このような見方で珍しがる美術品は、一種のゲテモノ趣味のなせるわざといえるであろう。やはり本物は、以上述べたすべての要素が充実していてこそ本物の美しさとし永久に人の心にしみ入るのである。ちなみに国宝級の美術品を見ればよくわかるであろう。  終わり

ちょっと長く引用してしまいましたが、なんだか耳が痛いというか美術品の鑑賞を上手く表現していますよね。このコラム、『鑑賞』という態度の本質を突いていると思いませんか?これは鑑賞魚の世界にも通じる態度だと思うんです。

『薄っぺらな鑑賞眼』として個人の単なるこだわりを“偏見”または“ゲテモノ趣味”と断罪しているあたりは、あまりにも切れ味の鋭い意見だと思うんですよね。

ここで言う「物の美しさ」をらんちゅうに置き換えると、またまた何か見えてきませんか?

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2010年1月24日 (日)

冬の一日

まだまだ寒い日が続きます。

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すっかりこんな感じで青水が出来上がって金魚は底に沈んで春を待っています。

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中にはこんな舟もあって少し澄んでしまって底の金魚が見えています。しかし差し水以外はあまり手を入れることはありません。ヘドロのように沈殿物があると、かなり水質が悪化している証拠なので注意が必要です。

ま、今のところ順調ですがシーズンオフと言っても気が付いたら池を覗いて様子を見てください。

毎年のことながら立鱗病が散見されるのは頭が痛いです。放置以外は方法はないと思っています。

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2010年1月23日 (土)

東洋陶磁美術館

昨日、仕事明けに大阪市立東洋陶磁美術館に行ってきました。

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職場から近いのと前々から行きたかった場所なので足を延ばしました。今、北宋の汝窯の特集展と宇野宗甕展が開催されています。

この美術館は、わが国屈指の陶磁器専門の美術館なんです。なぜ大阪の地にこのような美術館があるのかというと、“安宅コレクション”の存在があったからだと聞きます。安宅コレクションとは、今はなき大阪の老舗商社の安宅産業のオーナーが収集した東洋の陶磁器の一大コレクションで、それが大阪市に寄贈されたのが契機であるということのようです。

まあ見事です。こりゃ「ついで」に来るところではないと思いました。甘く見てました。腰を据えて見に来るべきでした。一点一点素晴らしいのもさることながら、それぞれに学芸員さんの丁寧な解説が付されており、じっくりと勉強したいと思わされました。

よって出直すことにいたしました。

お気づきだと思いますが、宇野宗甕展とは、そう、宇野先生の兄上ですよ。一番の目的はそちらからなんですが、汝窯の特集展が奇しくも開催されている意味は御覧になると良くわかります。

以前より言ってました「まずは良いものを見る」を実践するのに最も適した場所だと思います。一度足を運ばれてはいかがでしょうか。

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2010年1月20日 (水)

誰も知らない宇野仁松

今、大正時代の宇野仁松を調べています。

ある方から古い新聞の切り抜きを資料として頂きました。

そこには品評会のことが事細かに掲載されているんです。ところが、日付けも何新聞かも判らないんです。他の記事から大正時代であることだけは推定出来ました。

当時は、大阪毎日新聞(現毎日新聞)か京都日出新聞(現京都新聞)の二社が有名なのですが特定できずにいます。

宇野先生の品評会での実績は、従来あまり芳しくないような説が流布していますが、実はそうでないことが調査で判ってきています。それから意外な事実も判明しています。

この資料には『今熊野の宇野氏が東京の品評会で優等を獲得・・・・』と書かれています。この記述は二重にも三重にも重要なことで、今は書けませんが、誰も知らなかった宇野仁松の全体像が浮かび上がってきているんです。

いずれまとまって研究成果を公表できる機会があると思いますのでお待ちください。

それでは今からマイクロフィルムを閲覧しに図書館へ行ってきます。(^_^;)

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2010年1月16日 (土)

叩き池とFRP池

寒い日が続きますね。

前も申しあげたようにうちは年中エアレーションを掛けています。

青水が澄まないようにというのと、凍らないようにと思いまして・・・・

ところがこれだけ寒いとやっぱり凍るんです。

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こんな感じで薄く氷が張ります。エアーのブクブクのところだけ氷が割れています。エアーを止めて止水状態にしますともっと氷が厚くなります。

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このようなFRP池が凍る状態でも、実は叩き池は凍らないんです。
同じ水量で気象条件はほぼイコールなのに、これだけの差が出るんですね。叩き池の水温の上下動の緩慢さが魚には良いのが判るかと思います。この少しの差は普段飼育している時には体感できない違いになるんだと思うんです。魚の出来を左右する環境とはこんなことなんだと思うんですよね。

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2010年1月15日 (金)

寒い!!

お寒うございます。

今冬一番の寒波が来ているみたいですね。世間では温暖化などと言っていますがふんぺいはそんなことは一向に信じようとは思いません。地球の気候変動なんて二酸化炭素の増加量だけで判断できるようなヤワな仕組みじゃないと思うんですけど。エコなんて考え方だけで随分と胡散臭いものだと思っております。

異常気象だなんだと騒いでいますが、10年単位で見れば多いように思えても、それが100年単位など長いスパンで見ればどうか、という視点が欠けています。マスメディアはなんでも短絡的にセンセーションに扱えば良いような風潮がありますが、もう少し冷静に物事を見極めてほしいと思うのです。

なんでもそうなんです。なぜその時代にそのような言説が流布していたのか、なぜ世間の人たちはそのような考えに陥っていたのか、またはそれがその時代の限界だったのかなかったのか等々、そういうことを考える視点が必要なんじゃないかと思うんですね。

その時代の限界とは、たとえば宇野先生が生きていた時代のらんちゅうのあり方や改良途上の形態の変化の限界など。その時代は最先端であっても我々の時代ではありきたりになっていることへの判断というものは絶えず必要じゃないかと思うんですね。金科玉条の如く、宇野先生が宣(のたま)ったからと言って全てを鵜呑みにする必要はないですし、時代背景を考えて先生の仰った意味を考えれば良いことなんだと思うんです。

宇野先生の遺された言説を丹念に調べていくと、実は辻褄が合わないことが沢山出てくるんです。その真意がどこにあるのかということを絶えず考えながら見ていかないと大変な思い違いをするんではないかとふんぺいは思っているんです。なぜ先生がそのような発言をされたのかといういきさつや前後の文脈をしっかりと把握しないといけないんでしょうね。我々が都合のよいことだけつまみ食いして、「先生が仰っていたから」という錦の御旗を掲げるようなことはあってはならないんだと思うんです。

自分の眼で見て感じて、そして考える。その際、物差しとして宇野先生がどう考えるかということを絶えず自問自答するという態度、スタンス、これが『宇野式』なのかもしれません。

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2010年1月 9日 (土)

流体力学的らんちゅう考

以前、らんちゅうの泳ぎについて流体力学からの考察を見かけたことがあります。

より良く泳ぐにはどうあるべきか、を流体力学的に理想の形を追求するとか・・・・・

鑑賞に際してらんちゅうの「泳ぎ」というものを最重要項目に挙げる向きがあるのですが、らんちゅうの存在理由から言うと、それは重要度としてはかなり低位になるとふんぺいは考えます。

なぜなら、流体力学的造形を追求すれば、らんちゅうの形は前方投影面積を小さく平滑にして、なおかつ舵としての尾をできる限り大きくして水流を制御すれば済むからです。それはらんちゅうの造形的指向性とは反対方向になり、詰まる所先祖のフナに近い形状と言えるのではないでしょうか。

尾が大きい=泳ぎが安定する→→理想のらんちゅう像から離れる

頭が小さい・肉瘤が出ていない=泳ぎが安定する→→らんちゅうからフナに

このように普通に泳ぎの良いらんちゅうを追求すれば、よりフナに近づくことが手っ取り早いんだと思うんです。ですから「このらんちゅうは何より泳ぎが良い。」なんて言われると改良の余地がないフナに近い代物と言っているようで褒め言葉とは思えないんです。

尾を振り込んでスーっと泳ぐとは、空を飛ぶグライダーを思い起こせば良いのだと思うんです。つまり推進力が無い状態では翼をより広げて気流(水流)を制御すれば良いんですね。尾を大きくして尾の張りを硬くすればよい。

先人は、らんちゅうに上記のこととは正反対のことをらんちゅうに要求したんです。

つまり、一番泳ぎに大敵な前方部に必要のない肉瘤を付けさせ、尾をチビ尾にする。泳ぎにくいに決まっているじゃないですか。泳ぎを言う前に、最低限のらんちゅうとしての資質を備えていることが大事なんです。だから肉瘤がすごくて泳げないらんちゅうと、泳げるけどフナに戻っているらんちゅうならどちらが上かは、火を見るより明らかなんだとふんぺいは思うんですね。

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霧氷

昨日は登山に行ってきました。鈴鹿山系綿向山です。ダイエットのため毎週一回は山登りしようと決めてましたが、前回から一カ月ぶりです。なかなか思うように行きませんね。

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御覧のように綺麗な霧氷が見れました。

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2010年1月 1日 (金)

謹賀新年

あけましておめでとうございます。

らんちゅうを年がら年中考えているうちに、また一年が過ぎ、一年が始まりました。

滔々(とうとう)と流れる大河の一滴より、奥深い山の大岩より人知れず浸み出したる清水の一滴たることを欲するが如く、この一年もまた一人でも多くの真のらんちゅう至上主義者を増やすべく努力していきたいと思っています。

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この盆栽のように、大地にしっかりと根を張り、確実な一年としたいですね。

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さあ!風雪に耐え、苔むした松柏たらん!

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