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2009年2月

2009年2月28日 (土)

下部構造と上部構造

社会は下部構造と上部構造からなる、と言ったのはかの「資本論」を書いたマルクスです。平たく言うと労働・生産が下部構造で、その上に文化や社会生活が乗っていて下部構造に規定されるって思考モデルなんですが、そんなことどうでもいいんです。そういうモデルを作って考えるとらんちゅう飼育も面白いんじゃない?ってヒントのご紹介なんです。

1.『らんちゅう哲学』を下部構造として考えて、、、

2.『らんちゅう飼育技術』を上部構造と考える。

3.『らんちゅう』というものは、下部構造に規定される。(ここがキモ)

いかがでしょうか?
この場合の『らんちゅう哲学』とは、「らんちゅうとは何ぞや?」を思考することです。『らんちゅう飼育技術』は「いかに健康に飼育し、いかにポテンシャルを発揮させるか?」の実践論です。基礎である下部構造をしっかりさせないと上部構造である2がいかに優れていても駄目。哲学が素晴らしいものでも実践が伴わない場合は、哲学の正当性を証明できない。

類い稀な技術を習得していても、らんちゅうの本質が理解できていなかったら、らんちゅうじゃないものが出来ちゃう。3の条件はだから必須と考えるわけです。まずは『らんちゅう哲学』ありきなんだと思うんですね。

ふんぺいが具体的な技術論を書かないのは以上のような理由だということを分かっていただきたいんです。

あくまでふんぺいの頭の中をぶっちゃけただけですから異論のある方もいらっしゃるのではないでしょうか。こういう考え方を鍛えて行けたら良いなあって思っています。

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2009年2月27日 (金)

らんちゅうの神様

世の中にはらんちゅうの神様がいるらしいです。

その神様は気まぐれで入門者に前触れもなく降りてきて、入門者を有頂天にさせたりします。これをビギナーズラックって言うんですが、こうしてラッキーな入門者は底なし沼と知らずに、らんちゅうと格闘することを運命づけられるのです。

かたや何年やっても神の降りてくる気配すら感じられない愛好家もいたりします。大半の愛好家はこの部類に入るんですが、みんな神を信じているので、救済があることを願って、せっせとアカムシや特別な自分だけのスペシャルな餌なるお布施を池に撒いて、毎日毎日神に祈りを捧げるのです。

ある時、ことのほか熱心な信者に、神がたまたま降りるときがあり、熱心さゆえに神様も居心地が良いのか5年(長いときは7~8年)ほどそこに居座ることがあるんですね。そうなったら大変。信者は最初は神様に感謝するんですが、次第に神様のことなんて忘れて、天狗になっちゃって、挙句のはては自分の実力みたいに勘違いして神様に対する冒涜まで口にするようになるんです。神様は気まぐれなんで5年ほどしたら何も無かったかのごとくどっかに行っちゃうんですよ。そのあと、何をやっても泣かず飛ばずってよくある話しです。

で、中にはその気まぐれな神様がずっと居座り続けるところがあったりなんかするんですが、その人が変わった祈りを上げているのかと思ったらそうでもなかったりします。よくよく聞くとその人は、神様の研究をしているんですね。つまり神学。なるほど神様のことを調べて、気まぐれな神様とどうお付き合いするかを考えている人だったんですね。

敬虔な信者だけでは足りない。神様が降りてきたときのおもてなしも考えて、気まぐれも受け入れて神様と向き合うこと。これが必要なんでしょうね。

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2009年2月26日 (木)

Cool(クール)とCute(キュート)

らんちゅうにパッと見た感じってありますよね。

どこをどう見てるのかなかなか分析できないんですが。それを言葉で表現することは大変難しいのですが、最初の印象をザクっと言葉に表すとこうなるってのを少しご紹介します。

らんちゅうの場合、大きく分けて二つの言葉で表すことが出来るのではないでしょうか。

それはお題にありますように、

Cool(クール)=かっこいいとか関西弁でシュッとしているとか。

Cute(キュート)=かわいい。

日らん系はどちらかというとクールな感じ。宇野系はキュートかな?
そんな言葉が当てはまるような気がします。クールは男性的なイメージ。キュートは女性的なイメージがありますね。

で、クール文化に対してキュート文化はカウンターカルチャーみたいな感じで対立軸として世間では認識されていたりなんかします。

でもね、ふんぺい的にはどちらもそれだけでは一味足りないって思うんです。だからクールでキュートならんちゅうがいいんじゃないかって思うんですよ。対立文化じゃなくて融合ですよね。

足して2で割るのが難しかったら、隠し味的なものが必要なんじゃないかって思うんですね。いわゆる、味を足しこむこと。これが大事じゃないかと思うわけですが、まさしく味覚で表現するところの「Delicous(デリシャス)=おいしい」を追究するのが良いのではないかなんて考えるんですけど。

よくよく考えると昔から「味魚(あじうお)」ってことを言ってましたよね。デリシャスな魚。これなんでしょうね。食べなくてもおいしく見える魚。目が喜ぶ魚。

そんな魚を見る機会があったら、迷わず「デリ~シャス!!」って叫びましょう!

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2009年2月25日 (水)

魚に聞け!

ボディランゲージってありますよね。

言葉を発するのではなく、自分の意志を体で表現する。
また、日本には上手い表現方法がありますね。阿吽(あうん)の呼吸。
これも言葉以外の所作や雰囲気で意志を通じあうってことですよね。
長いこと生活をしていると夫婦なんか、「あれ」「これ」で分かっちゃうみたいな。

こういうのって人間同士だけじゃなくてペットともありますよね。犬の躾(しつけ)なんかは犬の習性を熟知すると案外簡単に意思疎通ができるようですね。

じゃ、金魚、らんちゅうとはその意志疎通は出来るか?

ふんぺいは出来ると思います。もっともあっちは下等動物(あまりこの言葉好きじゃないですけど)なんでこっちの言うことはあんまり聞いてくれませんけど・・・・

金魚入門者の方は、人間と同じように朝昼晩と三食餌やったりしますよね。人間の尺度で金魚を考えるからそうなるんですよね。入門者の方に良く言うんですが、「餌をやるから殺すんだ。」ってね。金魚は一ヶ月餌やんなくても死なないってことが分からないんですね。

長くやっていると次第に阿吽の呼吸じゃないですけど、本当に金魚が欲していることが何かって何となく分かってくるんですよね。金魚には感情はないですけど、少なくとも快、不快の感覚はあると思うんですよ。それを察してあげる。

そんな金魚との対話を昔の人は、「魚に聞け!」って言ったんでしょうね。
健康に飼うってことを何度も言いますが、経験を積まないと分からないことなんだと思うんですよね。

で、魚に聞いたら答えてくれるか?・・・・答えてくれますよ!答えてくれないのも一杯いますけど!!

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2009年2月24日 (火)

シーマンとらんちゅう

ファミコンのソフトに『シーマン』ってありましたよね。

これってシーマンという架空の生物を育成していくソフトでしたね。

はじめは魚みたいな形体でどんどん変態していって足が生えて陸上に上がってってやつですね。幼生は魚なんですよね。それってマジらんちゅうですやん。魚の胴体に人間の顔が付いてて、その顔がふてぶてしくて飼い主に悪態をつくんですよね。それがなんとも面白いんですよね。

あんならんちゅうヤだなあって思いつつも、下手すりゃ池に一杯シーマンが居るような想像をするとなんかゾクゾクします。で手が出て足が出て池からわんさか出てこられた日にゃどーしましょ~みたいな妄想しちゃいますね~

そんな悪夢見たくも無いけど、出てきた奴らはきっと、「おまえの飼い方が下手くそだから出てきたんだろ!ばーか!」って言われそうですよぉ~

やっぱりらんちゅうは池で大人しくしといてほしい。

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2009年2月23日 (月)

金と銀の色彩学的考察

金色の体色についてお話ししましたが、少し掘り下げてみます。

宇野らんちゅうの特色として更紗の紅白が定評がありますよね。
色彩学的に言うと一般に白も一色ではないんですね。青味がかかった白、黄みがかかった白等々微妙な色合いがあり、人間はその微妙な色合いを区別できるぐらい精密さを持ち合わせているんですね。赤も一緒なんですよ。簡単に赤って言ってもそのバリエーションは個体ごとに違っていると言っても過言ではありません。

青味がかかった白、蛍光灯で青味の強いやつ。これなんかはより白く見せるためにそうなってるんですね。また逆に黄みを入れることによって自然色に近い色に見せる蛍光灯もありますよね。

そこで金魚の色に置き換えると、青味の入った白は、存在し得ないんですね。なぜか・・・それは金魚は基本的に青色色素胞というものが無いから。すると金魚の黄色色素胞がないタイプがより白く見えるということですね。

白→ベージュ→黄色→オレンジ

その色素胞の割合でベースの白色が決定するわけです。

ほんでもって、金魚の体色の金と銀なんですが、色彩学的には、そのような色はありません。銀は光沢があるから銀色に視覚的に見えるんであって、その光沢が無ければ、白でありグレーなんですね。金も一緒。黄色のベースに光沢感があるから金色なんです。キラキラしてないとただの黄色。折り紙の銀色ありますよね。それに黄色を入れることによって金色を表現しているんです。

ここでポイントは何かというと、「光沢感」なんです。視覚効果の問題なんですね。鱗の平滑感、いわゆる光の反射が問題になってくるんですね。

じゃ金色や銀色の光り輝く金魚を作りたいというのであれば、そういう鱗質を持った金魚を作るか、環境的な後天性であるならば飼育方法改善を考えなければいけないんじゃないかなって思うわけです。

もっともふんぺいの経験からは、健康に飼えば鱗の光沢感は無くなることはないと考えています。

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2009年2月22日 (日)

継続は力なり

受験の時、良く『継続は力なり』ってことを聞きました。

ややもすると試験の前だけ一夜漬けで勉強するってことをやりましたけど、コツコツ毎日少しずつでも勉強することが本当は大切なんだっていう経験、誰もがしていると思いますよね。

これって中々出来ないことですよね。怠けることが人間の性ですし、当然モチベーションが下がる時ってあるんですよね。ま、習慣性ってのもあって良い習慣を付けると意識しないでも長続きするってこともあったりしますね。

山登りを始めて気が付いたんですが、やっぱりコツコツやることが一番なんですよね。ゆっくりでいいんです。焦って登っても息切れするだけです。一歩一歩足を前に出すこと。これが大事。これを繰り返すこと。知らないうちに高いところに立っている。仕事も一緒。積み重ねがその人間を組織を成長させるんです。前に足を一歩出すことってのは本当にシンドイことなんですがね。

山頂に登るのにバイパスはないです。クルマでひょいと行けないんです。そんな整備された道はありませんよ。ふんぺいのような凡人は自分の足しかないですから一歩づつ登る努力をしないといけないんです。時々「ああ、ここが山頂だ!」って安心して弁当広げて食いだしてる人も居ますし、山を下る準備している人もいたりしますけど、恐らくそんな生易しいものじゃないんですね。たった一人で登頂した人物が付けてくれた道も、今じゃ獣道になりはててうっすらと登った痕跡が残っているだけ。

その人は「会は一日、飼育は365日」と仰ったとか仰らないとか・・・・

いつのまにかお題と変わっちゃいましたが、毎日の積み重ねが大事ってことです。経験を積み重ねること。意識しながらその経験を積んでいく人は歩幅が広いかもしれませんが、この趣味ばっかりは経験の重さを謙虚に受け止めなきゃいけないんだとふんぺいは思うんです。

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2009年2月21日 (土)

まめらんちゅう

「まめらんちゅう」って言葉聞いたことありません?

以前、I氏がF誌で紹介された言葉なんですが、この言葉の裏には自分のイメージにそぐわない他者に対する蔑み(さげすみ)の視線と攻撃性をふんぺいは感じます。またその言葉でラベルを貼ることによって自ら理解しようとする努力を放棄して思考停止しているように思うんです。

自分の論理を一方的に人に押し付ける暴力性すら感じるんです。この言葉一つを取っても、大変危険な階層性を孕んでいてあまり聞きたくない言葉だなあって印象なんですね。

階層性って何かというと、例えばですよ、日らんの当歳は大きいですよね。その大きさからすれば宇野系はみんな小さいです。日らんの愛好家からしたら、宇野系はみんな「まめらんちゅう」です。仮に日らんの愛好家からすれば小さいというラベルを貼ることによって宇野系の当歳は見る価値もないとなってしまう可能性がありますよね。

さらに宇野系の中でも会によって当歳の大きさの基準はまちまちです。サイズの大きい会は小さい会に対して小さいから、「まめらん」だからという理由で見る価値もないってことになるんじゃないでしょうか。だからすごく不毛な言葉なんですよ。

「まめらんちゅう」の階層性とは以上のような比較の問題なんだと思うんです。

なぜ宇野系は日らん系に比較して小さいか?とかこの会はなぜこんなに当歳が小さいのか?という疑問を持たないと、「まめらん」一言で思考停止しては真意がわからないはずなんですよね。その小ささに何か意味があるんじゃないかって考えないと(ほんとは何にも意味無かったりするかもしれませんが!)、自分の知らない世界を知る機会を自ら閉ざしているようなもんだと思うんですよね。

先入観を捨て真実はどこにあるか?をニュートラルに思考したいですね。

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2009年2月20日 (金)

らんちゅうは小判に尾ひれ

古(いにしえ)の先人は、「らんちゅうは小判に尾ひれ」と言ってました。

小判の形が理想形、そしてその小判型に、前にも書きましたが、小さい尾ひれがちょこっと可愛らしく付いている、これが良い!と言っていた訳です。この美的感覚は現在でも通用するものとふんぺいは感じています。

小判は、ご存知のように長方形の角を丸めた形ですね。長いほうの二辺が胴巾と考えられます。??ちょっと待ってください。これって上見ですか?それとも横見ですか?どうなんでしょう?実は横見じゃないかって説もあるんです。確かにそうも考えられます。

でもご安心ください。どっちでもいいんです。どっから見ても小判に見えたらいいんです。つまり円筒形なら一緒なんですよ。らんちゅうを輪切りにしたら円がらんちゅうの理想の形なんだから潜水艦みたいな胴を持っていたらどこから見ても小判!なんです。(もっと過激な理想形はあるんですよ。極端なのが・・・)

なんだそういうことかってな具合ですよね。ま、先人が「小判に尾ひれ」と言っていたのは上から見た形を言ってたんだとは思いますが、一件落着ってところですかね。

でもね、先人のイメージの中には、形だけじゃなかったんじゃないかという考えもあるんです。そう!小判の色、光り輝く金色、皆が大好きな山吹色、これもイメージの中に入っていたんじゃないかって思うんですよ。まさしく小判そのものをイメージしていたんじゃないかってね。今じゃあんまり話題に上らない黄金色。その金色を先人が理想の色にしていたのかは検証が出来ていないのでなんとも言えないんですけど、調べてみる価値はあるんじゃないでしょうか。

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2009年2月19日 (木)

肉瘤考ノート

『肉瘤考』には書きませんでしたが、肉瘤の呼称についてもう少し考えることがあるんです。

皆さんお分かりかと思いますが、肉瘤の種類は、

獅子頭(ししがしら)

龍頭(たつがしら)

兜巾頭(ときんがしら)

大きくは三つに分類されます。それ以外には、

おかめと鬢張り(びんばり)があるんですね。この二つは現在あまり使用されていません。なぜかというと、おかめに関してはそんな個体が居ないのと、鬢張りに関しては今の私たちの美的感覚とはそぐわないからと思っています。

そこで気が付くのは、この分類法は魚を前方よりやや斜め上から見た呼び名なんですね。決して上から見た時にそう見えるってわけじゃないんです。『肉瘤考』のイラストも参照してくださいね。ですからその角度から見た時、立体感を持って『顔』になっていないとこの分類法は成立しないんです。

さらにあまり使用されないようになった後者のおかめと鬢張りですが、同じように考えると、おかめは元来、鼻が低く頬が丸く張り出した、いわゆるお多福さんをイメージする言葉だったことが分かると思います。実物の画像はないのか?と思われるでしょうが、桜井良平氏の『金魚百科』にそれらしきものが掲載されています。

鬢張りに関しては、実物は現在居ません。中国らんちゅうに見るぐらいです。愛好家によって鬢の捉え方が違っているようですが、前方やや斜め上から見た場合、らんちゅうの頭部を顔に見立てると、目の後ろあたりがもみ上げ、つまり鬢にあたるんですよね。その部分とは鰓蓋なんです。鰓蓋が肥厚したらんちゅうなんて今見たこと無いですよね。じゃ、昔は居たのかというとどちらかというと鬢張りのらんちゅうが多かったみたいです。ふんぺいは昭和の初期の優等魚の写真を見たことあるんですが、その金魚がまさしく鬢張りでした。我々の感覚からすると目巾のないかっこ悪い金魚に見えるんですね。

こうやって見ると肉瘤の用語一つをとっても色々と考えさせられることがまだまだ多いことが分かると思います。

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2009年2月18日 (水)

宇野仁松に会いに行く

先日、宇野先生に会いに行ってきました。つまり、もう随分と前にお亡くなりになっているんでお墓参りに行ったんです。西賀茂の奥、山の中腹に名刹 臨済宗南禅寺派「正伝寺」があります。本堂の裏手の山にそのお墓はありました。

前日まで2月とは思えない温かい日でしたが、その日の京都は雪混じりの寒い日で、底冷えのする杉木立の石段を、お花とお線香を携え、どのような気持ちで先生と向き合ったら良いのかなと思案しながら一段一段踏みしめて登ります。

ご住職に訪問の理由を告げると、気持ち良く案内してくださいました。
案内のすがらご住職から聞いた話ですが、親類の方の参拝はごく僅かで、大阪と和歌山かららんちゅう愛好家が毎年お墓の掃除をしに来ると仰っていました。思ったとおりです。随分と寂しい思いをされているんです。

お墓は大変風変わりな、立派な陶器製で私たち(T氏同行)をどっしりと待ち受けていました。ドーム状の墓は陶器を嵌め込みその間は苔むして時間の流れを感じさせます。線香立ての前にはきっと宇野先生の陶器なんでしょう、無造作に置かれています。それに水を注ぎ込みます。T氏とともに花を供し、線香を上げ手をあわせます。

宇野仁松とはじめて対峙してふんぺいは何を思ったか。それは、お会いしたこともない若輩者が先生のことを詮索するご無礼のお許しを乞うたのと、これからのお導きをお願いしたのです。

こんな立派なお墓ですが、実はこれは初代の墓なんですよね。どこにも金魚を愛した宇野仁松の名前はないんです。父親と同じ墓に入っていることになるですが、初代の名前のみで墓には何も書かれていない。名前を継ぐものもなく只々その人としての存在は、手がけた陶器とらんちゅうに痕跡を残すのみとなっているのです。何か晩年の不遇を見るようで寂しささえ感じられました。

宇野仁松が目指したらんちゅうと私が目指すらんちゅうはどこかで交差するのでしょうか?いくら追い求めても陽炎の如く、逃げ水のように消失する影なのではないか?そんなことを取りとめも無く考えながら帰途に着いたのでした。

もし参拝を所望される方がいらっしゃるなら供花と線香は必ず持って行ってくださいね。

Dsc_4100_3 陶器製の宇野先生の墓。墓域の囲いもトルコブルーの陶器とは実に手が込んでいる。

Dsc_4099 右側面に名前が・・・但し初代の名前のみしか見当たらない。

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2009年2月17日 (火)

鑑賞眼は進化する

先日、日テレ系番組「所さんの目がテン」で面白い内容がオンエアされました。

『苦味』についてなんですが、ビールって大人はおいしいと感じるけど、子供は感じないんですよね。で、面白い実験をしていました。

綿菓子は万人が好きですよね。その綿菓子の材料のザラメに、あの苦い苦いセンブリ茶を入れて綿菓子を作るんです。するとどうなるか? 興味深い結果が出たんです。それを食べた所さんをはじめ大人はコクがあっておいしいと大絶賛!売り出したら絶対売れるってぐらいの評判でした。しかし、それを幼稚園児に食べさせると…なんと「苦くて食べられない!」と全員が拒絶したんです。

それじゃ大人は苦味を感じていないのかというと、脳波を測定すると大人も苦味を感じていると分かったんですね。大人の脳はその苦味を苦味と感じるんではなくコクとして捉えた。経験的にコクと捉えるように脳は変貌したんですね。

この実験結果から、鑑賞眼というものも同じことが言えるんではないでしょうか。甘さしか分からない子供の目が経験を積むことによって次第に苦味にあたる目を持つようになる。ですから鑑賞眼は経験とともに進化すると言えるのではないでしょうか。

ふんぺいが脳に拘るのはそういうことなんです。

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2009年2月16日 (月)

伝言ゲーム

子供の頃、良く伝言ゲームで遊びましたよね。

伝言を次々と人に伝えていく遊びですね。意図せずに全然違うものに変容してしまう意外性が面白いゲームでした。人を介せば介すほどその内容は最初の伝言から変わってしまうのですが、それはなぜでしょう。個人の記憶力やポイントを押さえる理解力に個人差があるということをこのゲームから学ぶことが出来ます。

さて、ふんぺいが何を言いたいかは勘の良い皆さんはお分かりでしょう。
宇野系らんちゅうも伝言ゲームになってやしませんか?ということなんです。愛好家の皆さんは何も悪気はないんです。むしろ誇らしげに「宇野系らんちゅうはこういうものだ。」と仰るんです。ある時はものすごく為になるし、ある時は随分一面的だなあって思ったりもします。最初は私の経験も不足していたので、ただただ混乱するのみでした。次第に時が経つにつれて整理できるようになり今に至っています。

人間の記憶力って大層あやふやなものです。昔のことは忘れることのほうが多いんですからそのあたりをしっかり自覚しないといけないんだと思います。
で、この頃は誰がそのように言っているのかを聞くようにしているんですよ。伝言ゲームを遡る作業ですね。言い出した張本人を探せ!です。その作業をしてはじめて最初の意図してきたものが正しく伝わっているかが立証されるんです。私たちが立脚している地点が本当に正解なのかなんて分かったものじゃないんだとふんぺいは思うんですよね。

宇野らんちゅう愛好家が寄って立つべき縁(よすが)とは何か?それを分析しないと気持ちが悪いんです、私は!

ですから皆さんも伝言ゲームは止めにして疑問に思ったことは用語一つを取っても言い出した人を探してください。そういう問題意識を持つことによって宇野らんちゅうの本質が分かってくるんじゃないでしょうか。

ふんぺいは、これを『宇野らんちゅう原理主義』と呼ぼうと思います!

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2009年2月15日 (日)

チビ尾礼賛派

らんちゅうはチビ尾が似合うって聞いたことありません? 

宇野系がそうだって言っているわけじゃないんです。らんちゅう全般の目標はチビ尾だったはずなんですね。ところがいつの日からか泳ぎを優先するあまり、大きい尾もオッケーになっちゃったんでしょうね。

背びれのないらんちゅうが上手に泳ごうとしたら姿勢制御の為の唯一の拠り所は、尾になっちゃうんだと思うんです。(極論すると舵尾がなくてもらんちゅうは泳ぎます)しかもフナ尾じゃないんだから尾を左右に打ち振るわけにもいかない。じゃ、どうするんだって話しになると尾を大きくして尾先を振り込んで泳がないわけにはいかない。泳ぎ優先となると必然的に尾が大きいほうが有利ってことになるんでしょうね。飛行機を見りゃわかりますよね。

古き良き時代の、かの山崎節堂氏がチビ尾が好みだと仰っていたのは有名でしょう。そもそも先人は押しなべてチビ尾礼賛派だったんですね。だから見えている人には審美的にらんちゅうはチビ尾なんでしょうね。

どこで読んだのかな?宇野先生が、ある時、業者が「来年は尾を大きくしたい。」みたいなことを言ったのを聞いて「らんちゅうはチビ尾が理想。尾が大きくなったらそれは退化です。」と一喝されたって話し。

宇野系でも大きい尾は出ます。そういうのは意識的にハネますよね。チビ尾はチビ尾なりの泳ぎをするんですよね。普通、流体力学的には安定しないはずのチビ尾を先人は追究されて来たんだとふんぺいは思うんです。ならば、そういうように改良する努力をしないといけないんでしょう。まだ誰も成し遂げていないらんちゅうの理想形。チビ尾にはロマンがあります!誰か奇特な方やってみてください。

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2009年2月14日 (土)

色を社会科学する

更紗って綺麗に見えますよね。更紗については何回か触れていますが、少し掘り下げてみます。ずっと暖めていたものを少しご披露します。ご披露してもふんぺいには何も得することはないし、またどっかのネットでマネされるのはイヤですけど…そんな不心得な輩が居るから情報が流通しないんですよ!

お題が「色を社会科学する」にしたのは、ふんぺいは大学時代、社会学を専攻した文系の人間なので理系的なアプローチではなく、社会を形成する人間を科学するという視点で物事を考えるほうが得意なもんですから、それを採用しながら分析したいと思ったからです。

赤と白、有彩色と無彩色の組み合わせは、皆さんご存知のようにそのコントラストから目というか脳を大変刺激します。赤ちゃんは物体の形体(姿かたち)を認識するより先に色を認識するそうです。また、赤は成人でも最も認識しやすい色ですよね。赤信号がなぜ赤かとかね。色は意識しないでも本来認識しやすいようになっているんです。詳細を書くと長くなるのでやめておきます。

つまり色は分かりやすいってことですね。らんちゅう初心者の方が更紗に固執するあまり形にこだわらないのはさもありなんということです。

上のような生理学的な分析がまず前提としてあるんですが、問題はそんなには簡単ではないんですね。赤白の組み合わせは、万人が好む色彩かというと実はそうでもない。日本は国旗からして白地に赤。かたや中国では赤で染め抜いたものが好まれるそうです。諸説あるんですが、日本人が紅白を好む起源は、源平合戦に遡るということを言われていたりするんですね。

日本人が当たり前に好きな紅白は実は生理学的な傾向であるにもかかわらず、なおかつ社会的な刷り込みでもあるってことなんです。紅白の更紗を好む理由は、文化的要素も多分にあるってことなんですね。

その文化的要素を抜きにして考えちゃうと、らんちゅうの美の普遍性なんかは揺らいでしまいかねないことになると思うんです。随分はしょって説明しましたがそういうことなんだと思います。たかが趣味の金魚からここまで広げるかってのがまた面白いんじゃないでしょうか。

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2009年2月13日 (金)

シンメトリーの呪縛

美学の要素にシンメトリー(左右対称性)があります。
シンメトリーの起源は…・って聞きたくないですね。
なぜ美しく見えるのかは突き詰めれば脳が好む形なんですけど、美しく見えるんだから仕方ないですね。しかしらんちゅうの場合、品評会ともなると病的なぐらい神経質に追究されます。片腹はNG、尾が左右対称でも先っちょが少しでも折れ曲がっていたりするとペケ。数え上げたらまだまだ沢山ありますよね。魚にとっちゃ人間様が異様にこだわるそんなキズも知ったこっちゃないんですよね。そんなもんで俺のポテンシャルを判断するなってボヤキが聞こえそうです。

シンメトリーの完璧な個体を求めるとなるとそれこそ宝くじに当たるような確率になったりします。ましてや生き物なんですから左右対称の個体はほぼゼロで本当は理想形として考えたほうが健康的です。

シンメトリーにあまりにも固執すると種として残るものも残らないってあると思いますよ。三歳まで片腹でどうしようかと迷っていたら四歳で治ったとか…その仔は片腹の個体ばかり出るかということもなかったし。そんなもんなんです。普通なら片腹でハネますよね。会に出しても評価されませんしね。宇野先生の「この頃は選別が早すぎる。」って仰っていた意味、そういうことなんですよね。これを実践されている方おられますか?忍耐が必要なんです、詰まるところ。

品評会の時はそれでいいんです。上にも書いたようにこれがエスカレートして選別でハネの対象とした場合、種親は残らないことになりますよね。ブリーダーとしては失格ということになるんだと思いますよ。片腹が遺伝しないと仮定すると片腹以外に良いところがあるものを捨てているということ。
そうしたらどうします?会の基準をそのまま選別に持ち込むことの危険性を認識していないと魚が下ることになりません?そこに気が付かないと気が付いたときにはもう遅いってことになるんじゃないですか?

会用としては完璧だけど、どこにも取り得がないみたいなのしか残ってないとか…・会用のレベルが種親の魚のレベルを上回ることはほぼないんですから自ずと考えなければならないのは、選別をどうするかですよね。種が落ちりゃ会用も落ちる。

選別で魚が変わる恐ろしさ。軽視しすぎじゃないですか?なんぼ血統が良くっても選別一つで他のものになっちゃう。オートマティックな選別がいかに怖いか。考えたことあります?

ふんぺいも良く言われました。趣味の金魚を作れってね。尾なんか曲がっとってもええ!特徴のある魚を残さなアカンで!って。至言ですよね。

結局、遺伝するかしないか、が問題になるんですが、傾向としてはあるんでしょうから参考にしないといけないとは思います。でもね、例えばですよ。潜望鏡(背に突起がある個体)が半分くらい出た腹で、普通だったら正常な個体でも何らかの潜望鏡になる遺伝子が発現する可能性があるように思うじゃないですか。それをF3まで取りましたけど、その時だけでしたねえ、潜望鏡が出たのは。さすがに潜望鏡の個体では取ってませんけど、検証しないと本当のところは分からないんでしょうね。

そこで結論。自分勝手な思い込みの選別をしたらいけませんぜ!ましてやブリーダーならオートマティックな選別なんかもってのほか。そして極意は…・・迷ったら残す!  だから申し訳ないけど池数があったほうが良い魚(特徴のある魚)が残る確率が高いんだと思うんですよね。

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2009年2月12日 (木)

言いたかねーけど

ネットは嫌いです。

最近あっちこっちの宇野系ブログを覗くことが多いのですが、酷いですね~

もう無法地帯です。ルールもあったもんじゃありません。あるブログでは、『金魚三昧』の「肉瘤考」の画像を無断転載、しかもふんぺいが言い出した用語をさも自分が考えた用語みたいに言ってたり、また他のブログは「らんちゅう至上主義」の画像を大挙無断転載して、これが何たら筋だって言ったり。一言断りがあってしかるべきだろーが!
一枚の画像を撮影するのにこっちはどれだけの手間暇かけてると思ってるのかっての!

ふんぺいも頑固な人間じゃないんだから、一言あったら気前よく「いいよ、出典は明示してね」ぐらいで済む話しなのに、どうなってんだか!もうこうなってくると宇野系のそれらしい能書きより言っていることの浅さがバレバレだっての。

不特定多数が見るネットでそんなことしたらアカンでしょう、普通。全てお見通しなんだし、こっちが知らないことを聞いて皆で宇野系頑張ろうって気になれませんわな、これじゃ。情報の共有化を推し進めたいと思ってもそんなふうに自分勝手な利用のされ方されたらこっちも黙ってられないじゃないですか!

訴えられてもおかしくないですよ。あたしゃ少し考え方変えよっと。
病み上がりの人間を怒らせないで~~

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風邪その後

風邪引いて本調子には程遠い状態です。やっと少し気力が戻ってきました。まあしかし、1月からほぼ毎日更新してたのを見てネタはあるもんだなあって思ってます。

1月中は、毎日らんちゅうのこと考えていたことになりますね!自分で言うのもなんですが大したもんです。バカとしか言いようが無いです。で足しげくご覧になっている皆さんもバカですよ!申し訳ないがっ!

でもね、この時期だけですよ、こんなこと考えてああでもないこうでもないって言ってられるのは。今年は暖かいもんだから金魚が浮いてきてどうも釈然としませんよね。毎日池見ながら思案しないといけないのはヤな気分ですよね。もう少しゆっくり妄想に耽りたいんですがね!

宇野仁松さんにも会いに行きたいし(死ぬってわけじゃありませんぜ!)、図書館で調べモノしたいんです。

ま、ボチボチ始動しましょうか~~

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2009年2月10日 (火)

自然治癒力って

風邪に罹って早や引きして家で寝てました。何もする気が起こりませんでした。朝起きたら下痢で全身倦怠、昼頃から熱が出て我慢できなくなって帰ってきました。

嫁さんが同じ症状で寝込んだので移ったんですね。風邪症状はほぼウィルスによるものが多くで細菌はあまりないそうですね。病院で抗生物質を処方されることが多いですが、効いているわけじゃないんですよね。薬が効いているわけじゃなくて自然治癒力で治っているそうです。

そう、自然治癒力です。偉大なものです。金魚も一緒ですよ。自然治癒力と免疫力。ゆっくり休養を摂って治癒力を発揮させる。これが一番なんですよね。なんでもかんでも薬に頼るわけじゃなくて、治癒力を発揮させるための環境を提供してあげる。金魚の場合は、塩を入れて昇温でそれを発揮させるのが一番。

塩の効用ってそんなものだと私は思うんです。風邪を引いて改めて思いました。

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2009年2月 7日 (土)

らんちゅうと剣道

ふんぺいは中学まで剣道をやっていました。剣道は礼で始まり礼で終わる。小学校では警察署の道場に通い、基本を学びました。始まりと終わりに座禅を組んで黙祷をします。なぜそんなことをするのか意味が判りませんでしたが、今に思えば精神統一だったんですね。すごく清清しい気分になりました。

剣道と柔道、同じスポーツのようで違うものなんですね。柔道は国際化が進んで今や「JUDO」です。競技に重きを置いて本来の精神性や日本人の心性は良くも悪くも薄められてしまいました。剣道は柔道のような国際化はされていません。それは競技より「道」を選択したのではないでしょうか。

外国人にはなかなか理解してもらえない「道」というもの。言葉にはなかなか還元できない「剣の道」、それを重んじたんではないでしょうか。私もなんとなく分かるんですが適当な言葉が見つかりません。

同じくらんちゅうにも「道」を感じます。特に宇野らんちゅうに「道」を感じるんですけど皆さんはいかがですか?

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2009年2月 6日 (金)

宇野仁松の青磁

中国 北宋の徽宗(きそう)が官窯として汝官窯を築いたそうです。そこでは青磁を作らせたんですが、「雨過天青」といって雨後の青い空をイメージする青い磁器が現在でも再現不可能な青と言われていて、その青が後にも先にも稀有のもので60点ほどしか現存していないらしく大変貴重なのだそうです。

それほど青は発色が難しく、宇野仁松の青磁は初代ともども手がけられた磁器のひとつで優品が多いと聞きます。

ま、素人なんで良い悪いは分かりませんが、少し博物館に通って勉強しようかなって思っています。

Dsc_3080_2 T氏所有の宇野先生の青磁です。

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2009年2月 5日 (木)

更紗オランダの極み

もうかれこれ7年前。寺崎氏の池を覗かせて貰った時、池の中に華が乱舞していました。まさしく華でした。更紗オランダ、見事に咲き誇っていたんです。長い尾をしゃなりしゃなりとたなびかせて綺麗な着物を着た貴婦人の如く。

もしかしたら更紗にふさわしいのはオランダシシガシラなのかもしれません。更紗らんちゅうでは味わえない色の極み。色の動き。

これを作るのに随分と白が出たそうです。でもいいですねえ~ このようなことが出来る人は寺崎氏しかいないとその時思いました。

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閑話休題

本日は、山登り行って来ました。

滋賀県にはちょっと登るのに適した山が一杯あります。以前、駅の階段が登れないぐらいメタボになり、ダイエットのつもりで山登りをはじめました。お蔭様で体重は12キロほど減って体力も付きました。金魚の世話も体力勝負。良い趣味を見つけました。これも寺崎氏のおかげです。氏は日本山岳会の会員でバリバリの本格派。氏を尋ねると金剛山に行っていて不在とかが多く、何がそんなに面白いのかと思っていて、それがキッカケで登り始めました。

標高1110メートルの綿向山で霧氷の有名な山です。雪は去年より少なかったです。
霧氷というより今回は樹氷みたいになっているのが頂上付近に少しあっただけでした。
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2009年2月 4日 (水)

オランダシシガシラ

オランダシシガシラに熱中していたことがあります。色々調べてみるとこれまた奥が深くて知られていないことが多く、それを「おらんだ通信(おら通)」というサイトで紹介しました。当時、長手のオランダは細々と各地で飼育されていただけで、その存在すら忘れ去られていたのが現状でした。

「らんちゅう至上主義」のサイトだけでも手に負えない状態なのにさらに「おらんだ通信」などというサイトを立ち上げたものですから大変です。しかしその甲斐あってピーシーズなどでも長手オランダは大々的に取り上げられ、日の目を見ることになりました。

今だからお話ししますが、日本オランダ獅子頭愛好会の横浜のI氏とK養魚場のK氏とふんぺいで浜松で落ち合いオランダの今後の為の話し合いをしました。その時は四国の愛好家や中部の愛好家が集まりやすい奈良郡山で品評大会を開催しようという案でまとまりましたが、その後その案は立ち消えとなりました。

しかし、一度動き出した歯車は形を変え実を結ぶことになったのでしょう。去年、香川県にて「日本オランダ獅子頭全国交流大会」が開催されたようです。次回の金魚伝承できっと紹介されることでしょう。

ふんぺいは今はオランダを飼っていません。仔引きもして一時は継続して飼育していくつもりでしたが、らんちゅうで手一杯で飼育を断念してしまいました。

何故長手のオランダをやり始めたかというと、宇野先生が飼育していたからなんですよね。結局宇野先生つながりなんです。

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大同団結

この頃よく思うことで、仲間うちや流派だけで流通している用語が多々見られ、それが入門者の敷居を高くしているのではないかという危惧です。仲間うちで話しをする場合は共通認識が出来ているのでコミュニケーションは良好ですからさらなる仲間意識の構築が可能です。しかし用語が一般化されていないと身内以外は拒絶するということが無意識に働く危険性をはらんでいます。

だいたい宇野系の場合、ここ20年ほど、地域ごとの会やグループに分岐したまま今日に至っています。それぞれのグループ同士意思疎通があるかというとそうでもない。各グループを横断的に誰もが認める用語がないのでいちいち用語の付き合わせが必要になってくる。「この用語は僕たちが使用しているこの用語に対応しているんだね。」と確認が必要なんですね。

ま、致し方ないと言えばそれまでなんですが、下手をすると自分のイメージしているものと全然違うものだったりして随分あとに、そうだったのか!と合点することがあります。また逆にそのグループしか知らない愛好家にしてみれば、自分たち以外は正当ではないみたいな根拠の無い思い込みに縛られてしまう可能性すらあります。

ふんぺいはそれじゃいけないんだと思うんです。宇野系らんちゅう愛好家って結構いるはずなのにバベルの塔みたいになっちゃって空中分解するんじゃないかって心配なんですよね。みんなで改良の方向性が見出せたらもっともっと遠くへ行けるんじゃないかって。

一例を挙げると、この頃、日らん系のらんちゅう、更紗じゃなかったら上がらないらしいですね。それは見事な更紗魚が品評会に上がってます。

ふんぺいは何が言いたいか?これ以上書かせないで下さい!。・゚゚・(≧д≦)・゚゚・。

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2009年2月 3日 (火)

更紗の謎

クローン山羊や犬、猫の話題が良く紙面を賑わしますよね。いずれ科学の力でクローンらんちゅうが出来れば・・・なんて思っている人居ませんか?DNAが一緒なら大関がわんさか出来るって話しになるんですが、それは到底無理な話しだと思いますよ。第一そんなに莫大な研究費を使ってやる馬鹿いないでしょうし、仮にクローンが出来たとしても環境が違えば同一の形体にはならないでしょう。それから高等動物ならまだしも、フナ科の生物って専門家に言わせると一番研究したくない生物の一つらしいです。遺伝子が無茶苦茶でパンドラの箱を開けたみたいに収拾がつかなくなるらしいです。

いつだったか聞いた話しですが、どこぞの国で犬?だったかのクローンを作ったそうです。その犬はブチ犬で模様があったんですね。母犬のブチ模様とそっくりの模様がクローン犬に出来たか?っていうと出来なかったんです!DNAが一緒でも模様は変わっちゃうんです!

金魚も一緒ですよねえ~ おそらく。。。

ご存知のように模様が一緒の金魚っていないですよね。出たとこ勝負ですね!宇野先生も諦めちゃいました。だから模様の多様性でいいじゃないかって結論です。

なぜ、あんなふうに更紗って赤白の柄が出来るか?不思議に思いません?それも金魚任せの柄で、愛好家が一喜一憂するわけですが。

で、仮説を三つほど考えました。

1.S(スポット)遺伝子による作用

2.トランスポゾンの影響

3.DNAのメチル化の作用

ここでは詳しく触れません。興味のある方は調べてみてください。
この3つの仮説はどれもそれらしく思われるのですが、もともと素質を有していて、環境因子が微妙に作用するみたいな感じなんですよね。

長年の経験から更紗の出具合を仰る方もいらっしゃるのですが、経験則の域を出ていないので再現性はどうなのかな?ってふんぺいは思っています。

この仕組みが解明されたらそれこそ面かぶりは馬鹿すかできるんでしょうけど、なかなかどうして、そんなこと研究する奇特な専門家もいないですし、ずっと謎のままなんだろうなって思っています。

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2009年2月 2日 (月)

大阪らんちゅうと宇野仁松

以前、故大野三男氏とお話しする機会があり、その時の印象が昨日のことの如く思い出されます。松井先生の巻頭の挿絵を指して「大阪らんちゅうってこんな形だったんですか?」という問いに、大野氏は「そうや、こんなんやったで。」とこともなげに仰っていました。

小さな頭、オムスビ型でふくよかな胴、可愛らしい平付けの尾、そして切って貼ったような斑紋。挿絵は限りなくキュートで現存したら飼ってみたいと思わせる風貌です。それが何故絶滅したのか?当時私は不思議でなりませんでした。

前回、「人なくしてらんちゅうなし」と申し上げましたが、大阪らんちゅうは飼育する人が居なくなって絶滅した典型的な例なんですね。この不幸を分析しておく必要はあると思うのです。

現在、大阪らんちゅうを復元するために篤志家がいらっしゃるのですが、残念ながら当時の写真も残されていず、松井先生の挿絵が本当に当時の大阪らんちゅうを忠実に表現しているかどうか検証できずにいます。個人的にはその挿絵のような金魚が実在していたとしたら是非とも飼育したいとは思います。。。

大阪らんちゅうの息の根を止めたのは、何を隠そう宇野先生だったんです。
これは自他ともに認めることだったようですね。折に触れて宇野先生は大阪らんちゅうに触れておられるし、先生の色柄に対する見識は大阪らんちゅうに間違いなく連結しているとふんぺいは類推しています。

大阪らんちゅうにまで影響を及ぼした宇野仁松ってどんな人だったのか?ますます謎が深まりますよね。このことを書き出したらブログでは書ききれないんですよ。いずれ機会があると思うんですが・・・・

大阪らんちゅうや土佐錦魚、ナンキンは宇野先生に通じているってことを皆さん見過ごしているんですよね。

らんちゅうしか知らない人は、見方が痩せているって思うのはふんぺいだけですか??

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2009年2月 1日 (日)

人なくしてらんちゅうなし

日本人は、戦前まで一貫して中国文化への憧れを持っていました。しかし敗戦と同時に目が覚めたかのごとく、その憧れは欧米へと向かいました。欧米というより特にアメリカ文化へと傾注していったんだと思います。アルファベットの文字に憧れ、衣食住全てがアメリカを模して、アメリカ仕様のモノで埋め尽くされていったのですよね。それが最先端なわけでした。何故かTシャツに横文字で「UCLA」って入っていればかっこよかったりしたんですよね。本来は所属を意味するはずが全く関係ないんですから笑っちゃいますが。

これって戦前の中国文化への憧れがアメリカ文化に取って代わっただけですよね。つまり、日本人の精神性の根本は何も変わっていないとも言える訳です。振り返ってみれば日本開闢以来、ずっとそうだったんであって奈良時代から同じことが繰り返されてきたわけです。

しかし、ならば日本はオリジナルがないのか?というとそうでもないんですよね。ここを特に強調したいのですが、先進文化を絶えず意識しながら自分に取り込むという作業をご先祖様はずっとしてきて、その中から取捨選択をしながら自分に合うものを見つけ出し、それこそ換骨奪胎して新しいものを創造してきたんだと思うんです。

無からは創造性は生まれない。オリジナルは発展性に宿る。

と思うんです。つまり、習作という技術の習得の上にオリジナル作品は積みあがると考えられると思うんです。

自分という現在を唯一のものと考え、歴史性も連続性も存在しないと切り離して考える思考法は、過去も未来も否定してしまうことになりかねません。ふんぺいが過去にこだわるのも、未来を見据えたいが為だと思うんです。

どういういきさつで現在があるのか。こうこうこういう理由で現在こうなっている。じゃ、こうすればより良くなるんじゃないの?って答えが出るじゃないですか。
例えば山で道に迷ったとします。その時のセオリーは、来た道を戻ることなんですよね。で、そうするとここで間違えたんだって分かるんです。道に迷ったからってそのままこっちの方向だろうって山を登ったり谷に下りたら取り返しがつかないんです。それと一緒。
ヘリコプターでポンと山の中に降ろされたわけじゃないんですよね。それじゃ右も左も分かりませんが、ちゃんと先達が道を開いて下さっているんだから。

らんちゅうは人が作り出したものです。フナからコブを出し背びれのない平付けの尾にしたのは紛れも無い人間の仕業でしたよね。そんなもの自然界に存在しないのだから、もうすでに今生きているらんちゅうには歴史性があり連続性があることになります。同様に我々人間も親が居てご先祖様が居たから今ここに居るわけです。人にこそ歴史性があり連続性があるかららんちゅうは存在しているのですよね。だから人を重要視しないと個人レベルでは何も見えてこないのだと思うのです。だから個体レベルでの議論だけでは総体は見えてこないのだと思うのです。

宇野らんちゅう愛好家が無自覚でいる改良の方向というものは、宇野仁松という人物が言い出したことであることをあまりにも軽視しすぎではないでしょうか。原点に戻ることは大切なことだと思います。宇野仁松は何を思い何を考えていたのか?ふんぺいはそれが知りたい!

らんちゅう(金魚)は人が作り出すもの 人なくしてらんちゅうなし

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